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女は弱し、母は強しの「竹むきが記」

ときは北条鎌倉末期から後醍醐天皇の建武の中興を経て、そして足利高氏の室町幕府創設という戦乱おびただしい動乱期、ここに高家の女性貴族が書いた小さな日記がある。「竹むきが記」、書き手は西園寺公宗きんむねの正室、北朝の廷臣日野資名すけなの娘、日野名子である。西園寺邸は竹向殿に住んだことから「竹むき殿」と呼ばれた。

名子の一生は南北朝争乱の真っ只中にあり、その様子がきわめて淡々と綴られている。夫、公宗が後醍醐帝暗殺の謀反を企て、これが明るみになると公宗は逆賊朝敵として斬首される(これは「太平記 巻十三 北山殿御隠謀の事」に詳しい)。その直後、男児を産むも末孫の捜索は厳しく、流産したと方便しては邸を追い出され、乳児を抱いて逃げ隠れた。高家権門とはいえ、動乱の悲劇と苦難は避けられなかったとみえる。

しかし名子は、零落した西園寺家再興のため、子の実俊に望みをかけ、西に東に奔走する。日記にはその健気さがことあるごとに記されているが、心を砕いたその生涯は、きわめて過酷な時代を女身ひとつで生き抜いた「女は弱し、されど母は強し」のお手本であり、真摯懸命に生きた生の記録だと思われる(この強さは、家門を守るべく訴訟をするため京から鎌倉へ下った老尼の阿仏尼が書いた「十六夜日記」に通じよう)。

上下巻のあいだにはおよそ三年間の空白がある。このあいだ、夫の公宗が斬首されている。か弱きひとりの女としてこの無惨さを書くに書けなかったのか、あるいは書けども散失してしまったのかは今日では定かではないという。不安に押し潰れながら住まいを転々とし、幼き我が子にすべての望みを託すべく決心したこの時期、欠脱ゆえにかえって名子の無言の決然たる意志が推測される。


東国の夷ども近づくと聞こゆれば、皆人色を直すほどに、梓弓のよそに引き違へぬるあやなさは、あさましともいみじとも言はん方なし。同じき七日、六波羅の四方に押し寄せてうち囲む。聞こえつる事なれど、さし当たりてはあきれ惑はる。


平安中期より日本文学史に燦然と輝くいわゆる女流日記、その掉尾ちょうびを飾るこの「竹むきが記」は残念ながら一般にはまず知られていないが、しかし女性が社会に躍進する昨今、もっと読まれてよい優れた古典日記のひとつではなかろうか。


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