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清潔な写真

ある一枚の写真を眺めていた。

狭い路地を写しただけのぼんやりした写真だ。それはどこか見慣れた風景で、私がそこに立っていても不思議ではないほどありふれた路地である。これは都内の某区で撮ったということだが、なるほど、親近感を覚えるはずだ。私は実際ここに住んでおり、こんな狭い路地を毎日一人で歩いている。

植木算さながら、路地の両側に立つ電柱が画面の中央に収束する典型的な一点透視図である。その道の真ん中には制服を着た高校生の男女が、こちらに向かって並んで歩いている。これは決定的瞬間だ。私はそう思い、この2人をずっと眺めていた。ここには本来なら見えないはずのものがはっきりと写されていたからである。

友達なのか恋人なのか、女の子のほうが照れくさそうに下を向き、優しく笑っている。近づきたくとも近づけないこの年頃の心理が、2人のこの距離感に見事に表れている。少し距離を置いて歩いているのは、恥じらいなのかしら。写真が全体的に白みがかっているのは、真夏の強い陽射しのせいだろう。見えないようではっきりと見える2人の距離は、とても清潔だと思った。何気ない狭い路地を、恥ずかしそうに歩く2人。純粋で、清廉で、清潔だ。

この自分にもそんなときがあったっけ。2人に自らを重ね合わせようとしたが、でもうまくいかなかった。見慣れた場所とはいえ、言うに言われぬほど清潔なこの決定的瞬間に立ち会った写真家が羨ましかった。

私は思わず表に出て、夏の白い眩しさに一人向かいながら、いないはずのこの2人が、ふと向こうからこちらにやってくるような気がした。もし会えたとしたら、そのとき2人の距離は縮まっているだろうか。

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