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源氏の君の最後の恋


光源氏52歳の最後の一年間を綴った第40帖「幻」のあと、紫式部は続く41帖に「雲隠」という巻名だけの脱文を残しているが、これは源氏の死の暗示だとされている。この配慮を補うべく書かれた、源氏の最後の恋とその死を描いた創作的パスティーシュ「源氏の君の最後の恋」という短編を紐解いた。作家はマルグリット・ユルスナールである。

そこにはわれわれ日本人の胸を打つ優れて日本的な滅びの美、いわば「もののあわれ」の悲哀が、それもまた源氏の最後の独白を通して美しく述べれられていた。

五十路を越え、老いて衰弱した君は盲して現実の光を失い、過去に愛した女たちの追憶を携え山の庵に隠遁生活を送る。するとそこに、長年思いを寄せる花散里はなちるさとがやってくる。君が盲目とはいえ扮装しているのは恥じらいもあったのだろうか。式部の原文ではこの花散里は高潔で慎ましやかな身分の高い女性だが、この物語では身分の低い情人の女房とされている(源氏物語のファンからはこの人物造形について批判もあるようだが)。

うつつに数多あまたの恋を流した源氏は、最後に肌を交わしたのが決して愛しはしなかった花散里だとは知らずに、今際の独白のなかにかつての女たちを蘇らせる。

…移ろいに移ろいゆく世は、命があるものもないものも、魂があるもあらぬも、その儚さゆえにいとおしく、またその滅びの定めゆえに死もまた決して不幸ではない。苦悩があるとすればそれは、それらひとつひとつのかけがえのなさゆえ…

そうして過去の愛の思い出を回想する源氏の科白は静かにわれわれの心を打つ。ここにはかつてどれよりも色めいた葉がついに枯れはてて、ひらひらと音もなく地に舞い落ちる、必定の悲しみが支配している。

源氏の最期に涙で震える花散里は、回想のなかに自らが入っていないことを知り、「もうひとり花散里という女はおりませぬでしたか?」と訊ねる。

愛するに人についぞ愛されなかった女の悲傷が、ここにもうひとつの「もののあはれ」として見事に記されている。愛に誠実を尽くしても、それは必ずしも報われるものではない。人生に限りなく善を努めたところで、人はだからといって安らかな死を迎えられるわけではない。しかしそれでも人は限りある生のなかで、善を尽くし、愛することを決してやめはしない。たとえ報われずとも、運命と契りを交わすように死を受け入れるがごとく受け入れ、やがてさすらいの移ろいのなかに、そして灰色の悲しみのなかに、「もののあわれ」となって消えていくのである。

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