見出し画像

出世の石段のご褒美、あるいは文化のトランスミッション


春休みを利用して帰省していた姪と甥は、しばらくみないうちに大きくなっていた。なにやら学校で習った歴史や古典文学に興味があるという。そこでいざ2人を連れて増上寺は愛宕あたご神社に出かけた。ここは父方の祖父代々が住んだ土地、父と私が生まれたところだ。今では再開発が進み、いたるところ建設中のビルが並び、かつての町名も学校も失われ、おもかげはみるまもないと父は寂しそうに言うが、時代も変われば連座して地図も人も変わるというもの、でも増上寺界隈はさすがに徳川宗家の容儀威儀に支配され、ほとんど変わることがない。子供らにとってもこれは何かの宿世であろう、わたしたち3人は愛宕神社の有名な出世の石段に足を運んだ。

徳川第3代将軍家光公の御時、愛宕山頂上に咲く梅をとってまいれとの思し召しに、ただひとり曲垣平九郎まがきへいくろうだけが馬で駆け上り、梅花を献上した。公はおおいに感心し、平九郎は瞬く間に出世を果たす。これが由来となって「出世の石段」と呼ばれている。しかしいざ目の当たりにして見上げるとかなりの勾配で思わず躊躇してしまう。「うぉ~」と驚く2人に、「ここは神域といって清潔な場所だから静かな声で話そう。よし、じゃあ誰が一番速いかヨーイドン!だ」とフライングをして私は真っ先に駆け上った。「あ、ズル!」と言って2人は私を追いかける。さながら出世を賭けた大一番である。

途中ですぐにも息切れした私を2人は颯っと抜いていく。もうこの時点で出世の道は閉ざされたが、嬉々として石段を登っていく2人の後ろ姿を見やると、腕の振り方から走り方まで全くそっくりだった。見守りながら、気を入れ直しようやく走り出した私も、いつしか同じ走り方になっていた。

文化のトランスミッション。

文化という文化は、言語にしろ考え方にしろ、ちょっとした所作や仕草においてさえ、身近なものの影響を受ける。人は置かれた環境に依存しながら、反応しては逆に作用して成長していく。あるいはこうして文化は後天的に遺伝するのだ。このトランスミッションはひとつの遺伝形質、哲学概念のいわゆる家族的類似だ、チョムスキーの普遍文法なんてまやかしだ、2人を追いながらそんなことを思い、ぜぇぜぇとなんとか最上段に登りつめた。

「おにいちゃん、おそーい!もう出世はムリだね!」と得意顔な2人。まったくの図星、もうほっとけ。

「2人とも速いな、きっと家光将軍が天国で見てて、あとでご褒美をくれるかもしれんぞ?でもいいかい、昔の人が書いたことや歴史の本にはいいことばかりではなく、悲しいことやつらいこともたくさん書いてある。でもそれは大切だと思ったからこそそうしたんだ。そうして日本の人たちがずっと伝えてきたんだ。新しい学校に行ったらきっとたくさん勉強するさ。そのなかで何か大切にしたいことが見つかるといいな」

そう言ってから、3人そろってお賽銭を投げて手を合わせた。帰り道、お食事でもとレストランに立ち寄った。お腹が減っていたのか、モグモグ頬張る2人をよそ目に、私はモルツのジョッキを注文、もう出世などどうでもよい、自分で自分に贈る何よりのご褒美、ジョッキ片手にグッと一気に飲み干す。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?