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みっつの「あさまし」

鎌倉幕府執権、義時討伐の院宣によって口火が切られた承久の乱に敗れたのち、後鳥羽院が隠岐に流された2年後の1223年夏、京都の下級貴族と思しき人物が鎌倉へ下った際のある紀行文に、このえきの「あさましさ」をきわめて美しく述べたくだんがある。数々の乱後処理のさなか、首謀者のひとり、中御門なかみかど中納言宗行が遠江国菊川で斬首される直前に記したものである。

さてもあさましや、承久三年六月中旬、天下、風あれて、海内、波さかへりき。闘乱の乱将は花域より飛びて、合戦の戦士は夷国より戦ふ。暴雷、雲を響かして、日月、光を覆はれ、軍虜、地を動かして、弓剣、威を振ふ。その間、万歳の山の声、風忘れて枝を鳴らし、一清の河の色、波あやまって濁りを立つ。茨山汾水しざんふんすいの源流高く流れて、遥かに西海の西に下り、卿相羽林の花のやから、落ちて遠く東関の東に散りぬ。これのみにあらず、別離宮の月光、ところどころにうつりぬ。雲井を隔てて旅の空の住み、鶏籠山けいろうざんの竹声、かたがたに憂へたり。風、便りを絶えて外土にさまよふ。夢かうつつか、昔も未だ聞かず錦帳玉當きんちょうぎょくとうの床は主を失ひて武客の宿となり、麗水蜀川のみつぎは、数を尽くして辺民の財となりき。夜昼に戯れて衿を重ねし鴛鴦えんおうは、千歳比翼のちぎり、生きながら絶え、朝夕に敬ひて袖を収めし童僕も、多年知恵の志、思ひながら忘れぬ。げに会者定離の習ひ、目の前に見ゆ。刹利せつり首陀しゅだも変らぬ奈落の底の有様、今は哀れにこそ覚ゆれ。

院とその皇子ら3人が各地に流されたことを受け、「夢かうつつか、昔も未だ聞かず」未曾有の出来事だとし、京方の公卿らも処断され「奈落の底の有様」だと綴っている。これは「さてもあさまし」、あってはならないこと、あるはずのないことだと、武家が日本の最高権威たる朝廷に勝利した驚きと衝撃を隠しきれない。それほどの事件だったことが一見目に映ったことを書いているようなこの文章にうかがえる。これひとつの「あさまし」。

この乱後、斬刑されたもののなかに藤原光親という人がいた。後鳥羽院の院司として義時追討の院旨を実際に執筆した右腕ともいうべき近習で、首謀者のひとりとされた。しかし光親は乱は向こう見ずだとし、院に取りやめるよう再三いさめたが結局聞き入られることはなかった。のちの執権泰時は光親のこの状を見たとき、大いに悔しがったという。仕える君主にその是非を問い、さもなくばめいに従ったまでのこと、忠誠がかえって仇となったからである。さらに斬首が決まったのち、唯一助命された近習のひとり藤原忠信を祝福したというほど清い心の持ち主でもあったという。京都六波羅から鎌倉へ下向する途の加古坂というところで光親は容赦なく首を刎ねられた。これ知るにふたつの「あさまし」。

もうひとり、佐々木広綱は幕府方の御家人にもかかわらず朝廷に味方したかどで処罰された。広綱には勢多伽丸せたかまるという14歳の子がいたが、ひとえに父が罪を犯したというただそれだけの理由で六波羅から召し捕られた。あどけなく美しい少年だったという。一方、この乱で宇治川先陣の功があった佐々木信綱は実に広綱と犬猿の仲であり、幕府にとってはきわめて重要な人物だった。その信綱は勢多伽丸を斬るよう主張したが、泰時は執権職の立場からこれを受け入れざるを得なかった。やはり武勲の恩賞は然るべきであり、幕府体制強化のためにはやむを得ないことだった。文武に長けた人格者として知られた泰時だったが、権能ゆえにその温情もここに限界をみた。こうして何ら罪のないいたいけな子供が殺害された。実際に手を下したのは叔父である信綱その人だったという。あまりにやりきれないみっつの「あさまし」。


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