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文章って本音で書けなくてもいいんじゃない?

noteを書いていると

「なんか本音が出せていない気がする…」
「自分が言いたいことが100%書けていない気がする…」
「この書き方でいいのかな…」

みたいな不安がよぎってくる。


かくいう今の自分がそうなのだが、
「何かあの人みたいに自分の気持ちを
そのまま載せられたらいいのにな。」
という思いがありつつ

どこかに恥ずかしさなのか
今の自分を出したらどう思われてしまうんだろう
という恐怖心なのか
抵抗感なのかが出てきて

「なん…かこれで…いいの…かな…」
っていう”しこり”が残ってしまう。




でも、よくよく考えてみると
絶対に本音で書かなきゃいけない必要なんてないんだよね。

確かに、ざっくばらんに思ったことを本当にそのまま文字にしているような人は素敵だしかっこいいし憧れる。
自分もそういう風になりたいなぁと思う。

でも、分からないけど、想像だけど、
そういう人たちも書き始めた最初から
今までずっとそんなことが出来たわけではないんじゃないかな?
人だからカッコつけて取り繕ってしまう時もあったんじゃないかな?
見栄をはってしまった時もあるんじゃないかな?

今だって短い時間でさささって
思ったことを綴ったように見えるものでも
もしかしたらじっくり考えて練っているかもしれない。
本当のことは分からないけど。

時間をかけて少しずつそういう部分を
出していけるようになったのではないかと
思いたい。(信じたい?)


そもそも確かnoteは
目の前に白紙のノートがあって
そこに自分が何を書いても良いっていう
自由がコンセプトだったような………

確かに文房具屋で白いノートを買ってきたら
そこに本音を書こうが取り繕ったものを書こうが
自由なはず。

極論、そこに赤ちゃんがクレヨンで
何か分からない落書きをしたってOKなはず。

だから、
『本音』とか『正解』とか『これを書かなければいけない』とか『見栄えよくスマートな文章にしなきゃ』とか無いんだよね。


先程と少し矛盾した言い方になるかもしれないが
自分が本音を出せる人間なら
最初っから出せてるんだよね。

対人でなかなか本音で喋れなくて
文字なら少しは出せるんじゃないかと思ったけど
やっぱりなかなか出せなくて。

だから、自分がそういう性質を
もってるんだと思う方がいいのかもしれない。

これは悲観的な見方ではなく

だからこそ一気には変われないけど
今を原点として
本当に少〜しずつ少〜しずつでも
やりながら変化していく、成長していく伸びしろが大いにあるのかもしれない。

(日々の癖や習慣を変えていく感じ?)

スポーツや音楽とかに初めて触れた時と一緒。
初めからゴールを決めたり楽器が演奏できちゃう人がいれば、全くできない人もいる。
でも、部活に入ったりクラブに入会したりして
それに触れる機会が増えれば
少しずつは上手くなってくるし
最低でも、何も触れてこなかった前の自分よりは
上手になっているはずだと思う。



それに、それを書こうと思ったスタートは
紛れもない事実。

中身が最初に想定してたものと違ったり
思ったように言葉が出なくても
スタートの思いは否定したらもったいないよね。

とりあえず、どんな形だろうと
書いた時点で、書けた時点でスゴい!

「こんな文章(内容)じゃダメ」じゃなくて
「そんな文章(内容)でもOK」
って
自分に許可をしてあげて
note本来の【自由】さを大事にしていきたいね。

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