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#172 遊びと学びの違いとは?

教員時代に研修で「遊びと学びの違い」についての話を聞きました。
その先生曰く
「遊びに目的やねらいがあれば全てが学びになる」
言い換えれば
ねらいや意図がないものは学びにならない
ということらしいです。

筋トレで「使っている筋肉を意識すると効果が上がる」
のと似ているし
精神世界で例えるなら
「認識できていないものは存在しない」
といった感じでしょうか

要は、「いかに教師側が遊びのように見せながら学ばせられるか」
ということです。

現在の私の考えでは
「人生は全てが学びであり、全てが遊び」
だと思っているので
いちいちこれが何に繋がるかを考えるのはどうでもいいんですが
(単にめんどくさいだけ)
あえて詳細に学びが起こるプロセスを考えてみます

例えば小学生のお子さんに30分の教育テレビをみせたとします。
すると・・・
受動的にその番組で伝えたい内容が知識として入ります
それを何かの機会に思い出して実践できるようになります
30分間の集中力がつきます
その後テレビを自ら消すなら、自制心がつきます

等々、何かをやることで必ず何かが身に付きます。
ですが、一方で他の時間が失われることでもあります。

目の前にあるAmazonの空き箱で何かを作る
明日の学校で友達と話す話題を考える
脳を休める、家の人を観察する
等々、大人が想像できない沢山のことが起こっています。

何が言いたいかというと
子どもに何かを身に着けさせようとすればするほど、身についていないことが目に入り、疲れていくかもしれない。
「学び」や「教育」などは私たちが頑張って想像した(作り出した)能力で測っているものに過ぎなく、気づかないところで別の機会損失を生んでいるのかもしれない。
でも、創られた「社会」の中で生きていくためには「社会」に適合させていくのがベターであるが、ベストかどうかはわからない。

だったら、子どもの持っている力を信じて、子どもを全力で野放しにしてあげた方が私は楽だなって思います。
(送迎や宿題をみる等をしてあげる余裕と気力が保てないです。。。)

ご飯を一緒に作ったり、絵本を読んだり、足裏をマッサージしたり…等
日常に子どもを絡めるように意識はしています。
強いて言うなら食事の時間は他の家庭より長めなのかもしれません。

あとは「お手伝い」じゃなくて「遊び」から始まりいつの間にか子どもの「仕事」にさせてしまう(笑)
子どもが食事や洗濯や風呂掃除とか・・・しないと家事が回らない
宿題はどっちでもいいけど家事はMUST

自分のことを棚に上げると周りの親御さんは本当に子どものために色々行動して立派だなぁって思います。

結局結論は、「遊び」でも「学び」でも
どっちでもよくて(毎回これ)
「遊び」だと思えば遊びだし
「学び」だと思えば学びだし

一つ一つの行為自体を細かく分析するもしないも
子どものために時間を設けるも設けないも
どっちでもいいって話です。

我々がどう捉えるか?
どれくらい気づけるか?(認識できるか?)
生涯、学習ですね!

今日も心のままに☆

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