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明るい絶望 #1

最近は家に人の出入りがある。自分の家にひとを招くのはもともと嫌いではないけれど、けっして得意ではないのだ。愛されているのだろうか、自分は。長時間、自分以外の人間と向かい合うと、こんなことをつい考えてしまう。そんなとき明るい絶望はいう。愛されていることって、そんなに大事? そうでもないかも。今日はこれから終電を逃した同じ会社の同僚が泊まりに来る。

 わたしが誰かから愛されているかどうかはさておき。家には今大きな紫陽花があり、白い芍薬があり、紫から白へとグラデーションのかかる菊がある。明るい絶望と過ごす生活に生花はうってつけであると気付いてからしばらく経つ。口うるさい希望には花のある生活はまるで清潔な布団と磨かれた家具のなかでしか行えないと教えられてきたが、なんてことない、ただの花である。人の手によって育てられ断ち切られ、いつか枯れてゆく、ただの特別な花である。わたしの生活と同じだ。共同を歩むにはうってつけの相手だと明るい絶望は教えてくれた。

 死ぬことを考える人間は花なんて買うだろうか、と記憶のなかで希望が問う。勘違いをしてはいけない。明るい絶望は死を望まず、生を望まない。安くてうつくしいクリームサンドクッキーを一口で食べるごと、生殺与奪の関係を放する。眠れば生活が続き、目が覚めれば直前直後の過去未来が終わって始まる。難しく言っているけれどそれってつまり毎日のこと? そうかもしれないし、そうじゃないかもしれない。もう少し簡単にしたい。そういえば冷蔵庫に枇杷があったね? 話が終わったら食べるよ。まだもう少し話をしていたい。


 執拗な希望とは話ができなかった。ひとのために生きるほか、正しく生きることができないという。明るい絶望とは気兼ねなく話ができる。きみとは未来がない。そして約束した過去がない。わたしが明るい絶望に触れるときは、夜中に暗闇で水をのむとき、誰かと誰かのすきまを縫って歩くとき。真実を教えてくれないきみのことを、大切だと思える。明るい絶望、わたしの親しい友人。わたしは少しだけ気付いている。きみがここに来たときから。あまりきみと話しすぎてはいけないんだろうな。

 とっくに終電を逃した会社の同僚がやってくる。わたしが食べるためにわたしが用意した枇杷を褒める。長崎に親戚をもつから、枇杷は買うものだと思っていなかったといった。わたしは枇杷を剥く。ふっくらとした枇杷の皮を縦にして剥いていく。食べるたび、こんな味だったろうかと思う。樹木の色をした種を放り出して、さいごのひとつを、突然の来訪者に供える。希望がいなくなったって、誰かのために、当然のようになにかを取り分けることができる。これはどういう意味? さあ。

なにを選んで、なにを食べるか。わたしたちはきっと選べる。明るい絶望は明るくいう。好きなものを食べるといいよ。わたしの夕餉の枇杷が誰かの夜食になってゆく。わたしもただの生活で、きみはわたしの友人だ。夜ふけのなかで、どちらかといえば死んでしまった枇杷をみながら、明るい絶望はなにも聞いてこない。きっと欠伸をした。

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