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明るい絶望 #0

これは明るい絶望の話。わたしから離れていった希望の話。重たい希望を荷物から下ろして、たいそう身軽になったわたしの前に今あるのは友人のように親しい絶望。

 ああ、これが絶望というものかと目の当たりにして分かる。絶望は叫びをあげない、恫喝をして、わたしを脅かしたりしない。いつも通り、時折曇る穏やかな正午に浴びる風のように、わたしを宥めすかしたりもする。絶望はけしてわたしに命令しない。
希望はわたしに命令する。幸せになれと言う。幸せになりたい、と答えなければわたしの首を背後から絞めてくる。希望は幸せという鈍器でわたしを殴り続けては、泣きながら前に進むことを励ましてくる。前になんて、進みたくないのだ。ここまで来るのに精いっぱいだったわたしを、これ以上いたぶらないでくれと懇願しても、希望はべったりとわたしに寄り添ってくる。触れ合いは嫌いだ。

絶望の存在に気付いたのは、突然ではなかった。気付けば自分の足元にある浅い水たまりのように、同じところに留まり続けた。わたしはわたしを許すことができなかった。きっと、一生許すことができないのだろうと思う。けれど希望はささやく。汝、許せよ。そうして必死に、汗水と反吐にまみれながら、自分を許そうとするごと、許せない自分が浮き彫りになり、許されるためなら苦しんでしかるべきと希望の言いなりになる。

あれから希望は言いつけてくる。誰かと生きることが幸いである、何度も試みよ。わかっている。試してもみた。けれどだめだった。深く触れられるたびに自分が遠のいていく。希望の色が褪せていく。声が遠のく。泣きながら、希望にそそのかされて実存すらあやしい泥のなかに腕のすべてを深くさしこんでいた。そのなかでわたしの手を握り返してくれた。絶望という、今ではもっとも親しい友。


絶望は明るくわたしから希望を退いた。幸せになることを強要しない、不幸になることを良しとしない。わたしを寂しい意味ではなくひとりにしてくれる。誰とも分かり合えないことが優しいことだと教えてくれる。もう泣かなくてすむ、そう思った時にどれほど安心しただろう。泣くと体が痛くなるのだ。痛みが希望を色濃くするので、わたしは痛いのが嫌いだ。痛ければ痛いほど、なにかを許された気になる。ろくでもない。体を大切にするようになった。自分を芯から労わることができるのは自分だけだ。それで希望とはここでおさらばである。


 絶望はわたしに触れない。ここにいていいと言ってくれる。進化について否定も肯定もしない。白くやわらかな寡黙さが、わたしをいくらも楽にする。立ち止まればそこにいる。進んでも進んでも、そこにいる。誰とも生きていけなくていい、誰かと生きていくとしても。自分を許さなくていい、憎しみさえしなければ。誰からも愛されなくていい、愛されることは義務ではないから。いつでも絶望を手放せる、それが絶望の明るさだった。


 もう愛しつくした、これ以上はもういい。けれど絶望はそれでもわたしを眺めている。こんな場所にいることをきみはどう思う? きみはもう嘲笑に負けない。自分を傷つけるものがいたとしても、きみはもう傷付かない。傷は癒えない、きみは許せない。現実。カーテンをしめきるよりも、もっといい苦痛がある。陽を浴びて、心の許せるわずかな友人と会い、ひとりで酒を飲み、まだ足元がしっかりしているうちに家にまっすぐ帰る。ごはんは食べた?食べていなくてもいい日もある、今日はその日にしよう。絶望は明るい。けれど決して声を荒げない。ただの生命を尊重する、もっとも近しい日常。ひどい雨、あまりに無残な事故、戻せない時間。それらと共に食卓につく。絶望は、わたしが許すことのできなかったすべてのことを許している。きっとねえ、そんな名前がいけないんだろう。だってきみはこんなに明るい。ここは望みの絶滅の場所。すべては等しくなる。そこで再生までの長い時間を絶望と待っている。これは明るい絶望の話。

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