見出し画像

明るい絶望 #テディベア

  失えば永遠だ。あの子の目をまっすぐ見たときに、わたしははじめて命の終わりを想像した。ここからゆっくりと終わってゆくのだと思った。彼女の瞳は黒くて、頭ひとつぶん小さな背丈の彼女をだきしめて、大きなスポーツバッグに詰めた小さなテディベアを差し出した。彼女は笑っていた。そんな風に泣いたらだめだよ、嬉しいね、会えて嬉しいよ。冷房に冷えた彼女の皮膚は白くてやわらかかった。失えば永遠だ。ゆっくりと終わってゆく。

スポーツバッグに入れたテディベアはひとつ千円程度だったけれど、当時中学三年生だったわたしにとってそれは決して安いものではなかったように思う。わたしは高校を卒業するまで毎月のお小遣いとか、そういう自由に使えるお金を定期的に与えられていなかったから、そのお金を工面するのに少しだけ苦労した記憶がある。もしかしたら親の財布から金を抜いたかもしれないし、修学旅行のお土産代として渡されたお金を誤魔化したのかもしれない。ともかく、そのテディベアを手に入れたことを父や母に見つかることがおそろしかった。スポーツバッグに押し込んだテディベア。

父と母に「好きな人にプレゼントをしたいからお金をください」と言えなかった。もっともっと突き詰めれば「お金をください」と言えなかった。なんなら「欲しい」と言えたことがなかった。お金がほしい、服がほしい、遊びに行かせてほしい、塾に行かせてほしい、喧嘩をしないでほしい、愛してほしい、ひとりにさせてほしい、手を繋いでほしい。そんなことを言えないのだから、お金の話や好きな人の話なんてできるわけがなかった。そういえば、親に「愛してるよ」と言葉で伝えてもらえる子どもたちはこの世に何人ほどいるのだろう。

テディベアをあげた彼女は、それから十年経って、突然の事故で死んだ。恋人をやめて随分経ったころだった。彼女の最後の恋人は、彼女の葬式ではただの近しい友人だった。世界。こんなのが世界?わたしは少しだけ悲しかった。彼女が幸せだったことに間違いはないのに。


もしかしたら愛なんて言葉がないものなんだろうか。わたしにはわからない。今だって、愛してると言われなければ愛なんて伝わらないと思っている。これは正しすぎる病気なんだ。言葉以外で受け取れない。耳で聞いて、目で見えるもの以外を受け取るなんて高慢だ。だからあの時、あの時代のなかで、隠れて生きていたわたしでさえ正しかった。女に生まれて女を好きなり、初めて好きだと口にできたあの恋は、あの時代においてさえ正しかったはずだ。わたしの目に見えない無象の世界がなんと言おうが、わたしは彼女が好きだった。そして彼女の恋人と、彼女がいた。それの何がいけないのか、理解が追いつかないほど。もちろん、今だって追いついていない。

けれど、世界がなんと言おうと、この世界はわたしのもの。そしてあなたのもの。今でも暴力的なほど、つよく拳を握り締めている。その拳のなかには、大切すぎるすべての愛。けして踏みにじられるな。傷付くな。愛するものにわたしたちの永遠を明け渡せ。

失えば永遠だ。ゆっくりと終わってゆく。それは今でも変わらない。愛している人の目をまっすぐ見つめるたびに、わたしは命の終わりを思う。失えば永遠か。テディベアは、きっともういない。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?