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亀を飼わなかった話

動物を飼うのがこわい。

ある時、一緒に暮らしていた人が「亀を飼わないか」といってきた。理由をきくと「知り合いに亀を飼ってくれる人を探してる人がいるので」ということだった。「亀ならば四六時中、面倒を見ていなければいけないこともないし」と言われて、「そうか?」と思いつつ「まあそうかも」と思う。

そしてわたしはむかし実家で飼っていた亀のことを思い出す。子供の手のひらくらいだったイチローと名付けられた亀は、そのうち人間の顔くらいの大きさになり、冬を越せずに柔らかくなって物言わずあたたかいおが屑のなかで死んだ。イチローよ、無感動な亀であった。犬に甲羅を食われ一命をとりとめても何一つ動じなかった亀…。

「亀はきらい?」
「きらいじゃないけど」

もともと動物が好きな人で、たびたびハムスターだとか犬だとか、そういった動物を飼おうと冗談まじりに提案してくる人であったのだけれど、そのたびにわたしは一瞬だけ、ものすごく悩む。けれどその悩みは長く居座らずに立ち去る。

「こわいから、やめておこう」
「少なくともわたしは自分以外の命の面倒をきちんと見ることが出来る気がしない。今だって自分で手いっぱいなのに、そんな余裕はもてないよ」

そんなようなことをいうと、その人はすこしだけ残念そうな顔をしながら、やっぱりねといった風に微笑んでその話題をおしまいにしてくれた。

わたしは動物ぎらいとかではなく、むしろとても好きな方なんだとその話になるたびに思った。

生き物というのはなにもせず育つことはないし、むしろ丁重に扱って心を費やさなければならず、そのうえよほどのことがなければ自分より早く死んでしまう。命を受け入れることは、悲しみを受け入れることだと思っているふしがあり、自分のそういうところにもうなんども辟易とするし、もう飽きてきた。けれど、命とひきかえに成長したいなんてみじんも思えない。「新しい家族と安定してくらせる自分」をわたしは早々に諦めてしまっている。

結局亀を飼うことはなかったし、これからも動物を飼うことはないだろうと思う。経済的にも人間的にもわたしが安定し、人生もいよいよ本当におりかえしであろう時期にさしかかれば、もしかしたら一緒に暮らす動物を選ぶのかもしれない。会話の成立することのない小さな伴侶を。

ちなみに亀は後日、引き取り手がきまったよと教えられた。すこし残念そうなその人は飼いたかったなあと言いながらその亀の写真を見せてくれた。つぶらな瞳。茶色い甲羅、太い足、どうみてもリクガメである。亀だけれども、というと笑顔で「うん」と言われた。その後長い時間を経てその人とは離縁となり、別々に暮らすことになったが、今でも何か飼いたがっているのかもしれない。


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