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Ghost In The Motel

 携帯電話のボタンを押す。
 薄闇の中に浮かび上がる、蛍光色の黄緑色。発光するボタンは気持ち悪いほど無機質で、吐き気を催すほど有機的に見える。
 安上がりのモーテル。
 誰もいない。きっとここは、昔からわたししか住んでない。
 唯一の持ち物でもある携帯電話は、汚れることも破損することもなく、わたしの手の中に納まっている。いつ頃から持っているのか、具体的にはわたしは知らない。ううん、わからないと言った方がいいのかも知れない。この携帯電話がわたしの正式な持ち物である、という保障はどこにもないのだ。
 音がする。
 外のコンクリートで出来た床を軽快に叩く足音だ。
 誰か、客でも来たのだろうか。珍しい、こんな古びたモーテルに。
 乾いた風が、開かれたドアの外から流れ込む。
 黴臭い室内の匂いに嗅ぎ慣れたわたしには、草木や水の匂いのない、乾いた砂の匂いしかしないその風でも、とても新鮮だ。
 ブーツがカツン、カツンとコンクリを叩き、木製の床を踏みしめる音に変わる。
 ……ああ、客だ。
 ブラウンのカーリーヘアーの彼は、真夜中だと言うのにサングラスをかけている。そのサングラスも、色褪せたように男の目の動きがよくわかる変な作りだった。黒いレザーのパンツに黒いレザーのブーツ。白いタンクトップの上に着てるものも、黒いレザーのジャケット。
 男は埃が浮く室内を一しきりグルグルと歩いた後、ベッドに勢い良く腰掛ける。衝撃で、ベッドに溜まっていた埃が煙のように舞い上がった。
 無理もない。わたしの記憶では、わたしがこの部屋に来た時からずっと、掃除らしい掃除はされていないのだ。モーテルの管理人であるあの髭の親父は、数度備品をチェックをするだけで、シーツを変えたりも床を磨いたりもしない。幾度となくわたしは親父のケツを蹴りつけてやったりしたけど、全く気付かないのだから意味がない。
 カーリーヘアーの男は埃を気にする風でもなく、身体を横たえ、ジャケットのポケットからよれたマルボロを一本取り出した。
 ジッポライターが室内の静寂を犯し、煙が形無く天井に吹き上げられる。
 わたしは久しぶりの客に、少しばかり見蕩れていた。
 男は何をするわけでもなく、ただ煙草を吸っているだけ。サングラスから窺い知れるはずの目からは、彼が何を考えているのかさっぱりわからない。
 どうせこんなボロっちいモーテルに来る客だ、金も持っていないろくでなしに違いない。
 バイク乗り、だろうか。
 そう言えばこの男が入室する少し前に、バイクの猛々しいモーター音が聞こえた気がする。
 わたしは少し離れたところから、カーリーヘアーの男を見ていた。
 男は灰皿に煙草を押し付けると、サングラスをつけたまま目を閉じる。ほんの数秒も経たずに、静かな寝息が静けさを作り出した。
 寝入った男を眺めていると、わたしの身体は吸い寄せられるかのようにふらふらと彼の傍らに導かれる。カーリーヘアーに手を伸ばし撫でても、わたしの手は髪の毛の間をすり抜けるだけで、掴めない。
 途端に何故か、わたしは切なくなった。
 思えば、あの管理人以外にわたしは人間を知らない。
 ずっと前、わたしが溢れんばかりの大地や草木やコンクリや木製の建物の間を駆け回っていた頃は、たくさんの友達がいた気がする。両親や兄弟、友達にボーイフレンドに、数え切れないくらいの人々と交流していた気がする。
 とても満ち足りた時間を送っていた。
 いつからだろう?
 わたしは、心の奥の奥から、寂しさを久しぶりに覚えた。
 手にした携帯電話を握り締め、見つめる。ディスプレイには凍りついたままの時刻が張り付いたままだ。
 午前二時十五分。
 特に意味なんてなかったはず。
 ボタンを押せば、蛍光黄緑が周囲を仄かに照らす。でもその光はわたし以外の誰かに見えることもなく、わたしだけの物だ。
 わたしの存在は、気付かれないのだろうか?
 気が付けば、わたしは男の顔をじっと凝視していた。
 思ったより、整った顔をしていて、どこか見覚えのある無精髭がある。
 何だろう、今フラッシュバックするように何かが脳裏を横切った。とても懐かしい、マルボロの薫りが寝息を立てる男の口から漏れる。
 引き寄せられるように、わたしの透明な唇は男のそれに重なろうとする。
 引き剥がそうにも、抗い難い力が磁石みたいにわたしの唇と彼の唇を吸い寄せる。彼の息がわたしの鼻の辺りをくすぐった、
「!?」
 瞬間、男の目が魔法でも見ているかのように、音も立てずに見開かれた。
 気付かれたのだ、と思った。
 何故ならば、男のサングラス越しの瞳とわたしの瞳は、確かに、一瞬でも、見つめ合っていたのだから。
 
 呼吸が止まる。
 初めから呼吸などはしていない。していなくとも、感覚としてわたしの身体に刻み付けられている。ないはずの心臓がドクドクと脈打ち、もうとっくに枯れ果てたはずの血液が音を立てて体内を走る感じがする。動悸は激しく、わたしは必死に荒くなる息を抑えている。
 数秒。数分。数時間。数日。数週間。数ヶ月。数年。
 時間にして二、三秒のはずのその時間は、引き延ばされているかのように、ゆっくりゆっくりと私の記憶中枢に沈殿されていっていた。
「……アンナ?」
 声を発したのは、わたしではなかった。
 ブラウンのカーリーヘアーのその男は、わたししか知らないはずのわたしの名前を、呟いていた。
 固定された視線は、わたしを見ているようで、その向こう側を見ている。何故だかわからないけど、この人も結局はわたしが見えていないのだろう。
 何故か、胸の中に悲しみと温かさがトクトクと滲み出した。
 わたしは居ても立っても居られずに、男の傍から離れて部屋の隅にうずくまった。
 何だかとても、悲しかった。この人に気付かれないことが、理由も知らないわたしの中に言いようもない寂寞を抉り立てたのだ。
 わたしが彼から離れる一瞬前、彼は黒革に包まれた腕を伸ばし、わたしの胸をするりと抜けた。その瞬間に、どうしようもないほどの孤独がわたしの心を震わせる。
 いつからだろう。
 いつから、こうなったんだろう?
 曖昧な記憶が雑巾を絞り上げるみたいに、ぎちりぎちりとわたしの中で木霊する。
「アンナだろう?」
 彼は、立ち上がると部屋を見渡し、そう言った。髑髏の指輪が嵌められた人差し指で、褪せたサングラスを取る。下から現れたのは、確かに見覚えがある顔だった。
『ピーター……』
 聴こえないはずのわたしの声に、彼は嬉しそうに笑った。
 全然、わからなかった。彼は、わたしのはじめての恋人だった人。でもいつの間にかわたしはこうして、独りでこんな裏寂れたモーテルで外を眺めている。
 何年前?
 そんなことは全然思い出せなかった。けれど。
 けれど、彼の少し伸びた背とハンサムに伸ばした無精髭のせいで、そうとは全然気付かなかった。
「会いに来たんだ、君に」
 ピーターは嬉しそうに、よれたマルボロをまた一本咥え、火を点ける。
「君の葬式もやったよ。もう……五年も前の話さ」
『五年……前』
 五年前、わたしは確かにただの人間の女の子だった。
「安心していい。犯人は、もう捕まったから」
 記憶がノイズ混じりで蘇る。テレビの砂嵐から切り替わるように、唐突に。鮮明に、蘇る。
 指先が、何かを探し求めていた。
 何か硬い物に当たり、わたしの指先はそれを握り締める。それは、今唯一持っている、携帯電話。何度も何度もボタンを押したのに、その時だけはどこにも繋がらなかった携帯電話。
『……あ……あ……』
 思い出した。
 わたしは五年前、この部屋で、犯され、殺された。
 だからわたしはこの部屋から出られないし、ずっと一人ぼっちだった。
「君を天国に送ったけど、もしかしたら君は向こうに行けてないんじゃないかって思って、ここにずっといるんじゃないかって思って、アンナ、俺は君に会いに来たんだ」
 ピーターの声だけが、静かな部屋に横たわる。
「あの時、俺は君に何もしてやれなかったから」
 彼は、辛そうに視線を下に向けた。何かを思い出しているのか、肩が小刻みに揺れている。
 泣いて、いるのだろうか?
『泣かないで、ピーター』
 あの日の陰惨な記憶に包まれながらも、わたしは彼に歩み寄る。決して触れられない腕で彼を抱き締める。すり抜けない程度の力で、抱き締める。
 不思議と、昔のことを思い出しても、わたしは恐怖も何も感じなかった。あの時のことははっきりと克明に覚えている。身体の芯まで刻み付けられた冷たさと苦痛と恐怖。
 けれど、何故か今は何も感じない。
 彼のカーリーヘアーが乾いた夜の風に微かになびいた。
 ああ、この感じ。よく覚えてる。まだ十六歳だった頃から、彼はカーリーヘアーで、わたしはショートボブだった。古臭い六十年代カップルなんて呼ばれていたけれど、わたしたちはとても幸せだった。彼の高い身長の胸の中で、わたしは幸せに息を一杯吸い込んでいた、いつも。
 ピーターはジャケットの内側から、一つの携帯電話を取り出した。
 わたしはそれを見て、目を丸く見開いた。
 それは、わたしが持っているものと同じ携帯電話。少し赤く乾いた汚れがこびりついていたけど、それは確かに。
「これさ、アンナ。君の形見だよ。君の両親に無理を言ってもらったんだ。来るのは少し遅れたけど、俺もやっと受け入れることができそうなんだ」
 恐る恐る腕を伸ばし、自分の手の中にある携帯電話をピーターの携帯電話に重ねる。彼には、わたしの姿なんか見えてるわけない。
 でもこうすれば、一瞬だけ彼にわたしを見てもらえるのかも知れない。
 感覚的に、そう感じた。
 携帯電話が重なったと同時に、わたしの中で悲しみ、切なさ、寂しさが消える。
 これだ。
 この感覚をわたしは、欲しかったんだ。独りじゃない、この感じ。
「ありがとう、ピーター」
 わたしの声は、彼に届いたのだろうか。
 全てが白くなる景色の中、ピーターが優しく笑った気がした。
 カツン、カツン、と彼が歩く音だけが、わたしの残った記憶の全て。

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