RENNY

 銜えたセブンスターに、火を点ける。
 ライターの炎が揺らめいて、煙草に移ろう様。それはとても神聖なことのようだ。
 厳かな儀式。すぐに終わってしまうものだが、愛煙家ならこの瞬間の味がたまらないことくらい、わかるだろう。
 数秒もかからずに、煙の味が僕の身体を浸透していく。
 潮の香り。
 向こう岸の、工場から漂ってくるオイルの匂い。
 海の上を流離う汽笛とサイレン。
 つがいで飛ぶカモメたち。
 無造作に置かれたテトラポット。
 僕がいる場所は、たまらなく寂しくて、人気がない。
「それもいい味出してるなぁ」
 思わず声に出してしまうくらいに、心地いい空気。
 埠頭の孤独な風景は、誰にでも似合う場所だと、僕は思う。
 その辺のテトラポットに腰掛けて、僕はアメリカンドッグを紙袋から出す。食べ損ねた昼飯の代わりだ。
 こんな人気のない場所なら、女の子の目なんか気にしなくてもいいから助かる。
 幸い、カップルも全然いないし。
 まぁ、時間が時間だから仕方がないけど。
「ねぇ、隣のテトラポット空いてる?」
 だから思わず、僕はむせてケチャップを噴き出してしまった。
 抗議の目で声の主を見上げて、ハッとした。
 申し訳ないけど、男って美人に弱い。毛皮のコートを優雅に着こなした女性は、生まれて初めて見るくらい、美人だった。
 機械的に首を振る。笑うんじゃない。
「ありがとう」
 たぶん、僕は今どうしようもないくらい鼻の下が伸びてるんだろう。
 
 彼女は、レニーと名乗った。
 ここは日本だし、彼女は明らかどう見ても日本人だし、言うまでもなく日本語もペラペラだ。
 僕は強引に、彼女は来日した日系外国人だと思い込むことにした。
 バカバカしいと思うんだけどさ、こんな美人と話す機会なんて、滅多にないし。
「あ、良かったら食べます?」
 まだ手のつけてないアメリカンドッグが入ってる紙袋を、レニーさんに差し出す。彼女はやんわりとそれを断る。そりゃ当たり前だろうな。
「煙草、もらえます?」
「セブンスターでいいなら」
「私も同じの吸ってますから」
 へぇ。セレブっぽい人でもセブンスター吸うんだな、と妙な感心を覚える。
 僕はセブンスターの箱をから一本取りやすいようにはみ出させ、彼女に向ける。彼女はお辞儀をすると、白くて細い指で取る。
 何となく見惚れてしまう。それくらい、煙草を取る動作も洗練されているように見えるんだから、仕方がない。
 どう考えたって、くたびれた二十代もそろそろ終わる男と、優雅すぎるくらいの美女。
 絵にすらなりゃしない。
 気まずい心持ちで、潮風に身を浸す。
 レニーさんはしばらく煙草を吸った後、唐突に立ち上がった。僕は、と言えば恥ずかしながら、アメリカンドッグを食べていたんだけど。
「お帰りですか?」
 そりゃそうだろう。いくらなんでも、僕と住む世界が違うっぽいじゃないか。
 っていうか、初対面の人に失礼すぎだよな。
「いえ、もう少しだけ」
 鈴の音の軽やかさで、彼女はクスリと微笑んだ。こんな美人が微笑むと、それだけで空気が華やぐらしい。
 鞄をテトラポットの上に置くと、レニーさんはスタスタと埠頭の端まで歩いて、僕はそれを呆けた顔で眺めている。おかしな絵だと思う。
 そして、くるりと彼女は僕の方を向いた。その顔は、何故だか笑っている。
 それ以上行くと危ないですよ、と言うまでもなく、レニーさんは背中から海に飛び込む。
 人が海に落ちる音と言うのは、結構大きい音がする。ってバカなことを言ってる場合じゃなくって、僕は慌てて海を覗き込む。
 レニーさんは、何だか嬉しそうな顔をして、こう言った。
「あなたも、泳ぎませんか?」
 何だか変な人だなぁ、と思ったのはいいけど、さてどうするべきか悩む。
 レニーさんは僕を待つかのように、こちらを見上げる。当然、上目遣いだ。海水で黒い前髪が張り付いて、それが変な色気を出しているもんだから。
 というよりは、あんな美人に誘われて断ったら、絶対後悔するな。
 僕は意を決して、飛び込む。
 強烈な海の匂いが、僕を手招きしていた。
 
 僕らはたっぷり2時間ほど、はしゃぎまくった。
 心地いい疲労感で岸に上がると、二人して地面に寝っ転がる。
「あなたって、変な人ね」
 レニーさんは肩で息をしながら、そう言った。顔はとても楽しそうだ。
 そしてそんな明るい笑顔をしたまま、コートからナイフを取り出した。日光を反射して、こんな美人が持つからか、とても綺麗だった。
「一緒に、死んでくれる?」
「へ?」
 何言ってんだろう、この人は。
 言葉が巧く出る前に、レニーさんは大きく笑い声を爆発させる。
「冗談よ、冗談。そんな顔しないでよ、おかしいんだから」
「何だ、冗談ですか、脅かさないで下さいよ」
 僕は憮然とした気持ちで、彼女に文句を言う。すると、レニーさんは笑顔をすーっと消し去った。
「いいえ、冗談じゃないわよ」
 でもやっぱりおかしくってたまらないのか、すぐに笑顔に戻った。
 一体、何なんだ?
「でも、やっぱりやめた。決めた。私、自首します」
「へ?自首?」
「そう、自首。私、人殺しなのよ」
 それだけ言って、彼女はふふふと笑った。
「はぁ、それは大変ですね」
「信じてないでしょう?」
 そりゃ普通、信じる方がどうにかしてるって。
「そりゃ、そうか。ごめんなさいね。久しぶりに、楽しかった。さよなら」
 それだけ言って、何故か彼女は寂しげな笑顔を浮かべた。僕の目の錯覚なのかもしれないけど。
 去っていく彼女を見送って、僕は首を傾げた。
 変な人だなぁ。
 
 翌日、新聞を見ていて驚いた。
 最近起きていた殺人事件の被害者の顔写真を見て。
 何故、彼女があんなことを言ったのか、それより何故あんな場所にいたのか。
 僕にはわからないし、わかるわけがない。
 でも一つ言えるのは、とても綺麗な人だったっていうことだけ。
 不思議と、怖くはなかった。

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