日本人の我慢に飽き飽き

「被災地に通い続けた英国人記者、「日本人の我慢に飽き飽き」 本当に伝えたいこと」渡辺志帆(朝日新聞GLOBE編集部員)Asahi Shinbun Globe+(2021年1月20日)

英国人記者リチャード・ロイド・パリーさん(51)はその著書『津波の霊たち』の中で「私としては、日本人の受容の精神にはもううんざりだった。過剰なまでの我慢にも飽き飽きしていた」書いた。この点を質問されて、パリ―氏は次のように述べた。

――日本人は政府に多くを期待していないとも言えますね。災害以外の状況下で、政府への期待値が低いことは一般的に言って、「悪いこと」になり得ます。原発事故がいい例です。あれは人災であり、完全に回避可能でした。設計のまずさ、計画のまずさ、津波など自然災害の脅威に対する原発の脆弱(ぜいじゃく)性への意図的な無知が引き起こした結果なのです。

・・・多くの人が原発政策に賛成していません。それなのに、それをデモや抗議活動、野党支持という形で表明しません。被災地で見た「我慢」の別の一面です。人々は政治や政治家に有害な「我慢」をして、まるで政治という天災の、非力な被災者のように、なすすべもなく耐えています。

しかしそれは政治のあるべき姿ではありません。・・・人々こそ、自分たちの政治家に直接の責任を負うのです。・・・同時に消極性と、日本の政治に責任を負うことへの怠慢にもつながっていると感じます。(引用終わり)

「人々こそ、自分たちの政治家に直接の責任を負う」というのはどういう意味だろうか。人々には政治家を選んだ責任があるということだろうか。政治家は政治家としてやるべきことをきちんとやらなければならない。もし怠慢な政治家がなにもしないか、何かをやっている振りをしているだけなら、そんな政治家を選んだ国民はその責任を負わなければならない。政治家は天災(もちろん天才ではなく)として諦めるのではなく、政治家に行動を迫る責任がある。政治家として適当でないなら、辞めさせるために声を上げるべきだ。しかし、何も言わない。何も言えない。先生や先輩に対して何も言わないように教育されてきたからか。
かつて、イギリスの経済学者ジョーン・ロビンソンが「インド人は嫌いだが、日本人も嫌いだ」と書いていたような記憶がある。その理由は、インド人はしゃべり過ぎるから、日本人はしゃべらないから。昔から変わらないようだが、もっとひどくなっているような気がする。40年前、私が学生だったころはもっと生意気にも先生たちと議論していた。今はほとんどない。しかし、学会で発表したとき、その分野の権威と見なされている人物の間違いを指摘したら、ひどい目にあった。そして学会が嫌になった。

日本だけではない。新がぽーつでの学会で発表したときの話。韓国の労働争議の多さは良く知られている。一方、日本の労働者は大人しく、労働争議が少ないこともよく知られている。どちらが健全なのだろうか?今から30年くらい前、ずいぶん若かったときに、労働者が声を上げられる韓国の方が日本よりも健全だと、シンガポールで開催された国際学会で発言したら、シンガポールの学会の重鎮からひどく反論された。日本の労働者はおとなしく、素晴らしいと言う。彼にとって労働者が自殺に追い込まれることは気にしない。ただ従順な労働者として働いてくれれば良い。
今思えば、あれはハラスメントだ。しかし、どうしようもなかった。我慢するしかなかった。我慢に「飽き飽き」である。

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