日本は「裸の王様」がいっぱい!

「東芝や関西電力のみならず、今回取り上げる日産自動車や三菱電機のトップが、裸の王様に陥らずに済んだかもしれない。」
(出典)吉野 次郎「独裁制敷いた日産ゴーン氏に教えたい海自・特殊部隊の対話術ー奥ゆかしい日本の悲劇(下)」日経ビジネス 2021.10.20

企業のことに詳しくないが、「裸の王様」はあちこちにいた(そして、今もいる)らしい。上記の記事には次のような言葉も出てくる。

「社内で神格化が進んでいた」「反論できなかった」「『できない』と言えなかった」……。

ゴーン氏は自身に異議を唱えた部下を左遷や退職に追い込んだり、「物言う監査役」を再任しなかったりした。誰も自分に逆らえない独裁体制を整え、独断で経営戦略や業績目標を決めていた。

 情報が一方向にしか伝わらない状況は非常に危険である。アマルティア・センは、1943年(第二次世界大戦中)にインドのベンガル地方で起こった飢饉について、現場の情報がイギリス本国に伝わらなかったことが状況を悪化させたと分析している(※当時、インドはイギリスの植民地であった)。そのことについて、東大学内広報に書いた。下に「裸の王様②」として掲げている。

 実は、このときに書いて掲載されなかった原稿が下記の「裸の王様①」である。日本自体が「裸の王様」になってしまっているのではないか、という趣旨であった。というのは、モロッコでは日本のことにはあまり関心がなかったからである。モロッコの首都ラバトで開催された会議は「中国・インド・日本」の順で、観客は日本がもっとも少なく、関心の低さを示していた。順番が最後なのも人気の無さを反映している。

 面白かったのは、ラバトの街中での反応である。ブラブラ歩いていると、声をかけてくる。「ニーハオ」がまず最初、それが通じないとなると次に「アンニョンハセヨ」となる。そして最後に言われたのが「スシ」である。「おはよう」や「こんにちは」ではないのである。これは中国人のプレゼンスがもっとも高く、次いで韓国人、最後に日本人ということを反映しているのだろう。韓国はテレビ放送の影響が大きいかもしれない。

 日本のテレビでは、日本は外国で注目されているような番組が多いが、それは日本国内の話なのではないだろうか。外国では日本はどう思われているのだろうか。情報は一方通行ではないのだろうか。それが日本の「裸の王様」化の意味である。

裸の王様①
 2019年12月にモロッコで開催された「中国・インド・日本の近代化」をテーマとする国際会議に出席した。筆者はインドと日本のセッションに参加したが、インドのセッションが満員だったのに対して日本のセッションは空席が目立った。残念ながら、日本に対する関心は高くなく、それはモロッコに限られたことではなさそうである。
 このことは日本の経済発展について発表の準備をしていたときから感じていた。1980年代までの日本は、世界経済を牽引役として世界経済の中で重要な存在であると認められていた。筆者は東南アジア経済を専門とするが、日本経済について講義を依頼されることも多く、何度も講義をしてきた。日本の経済発展の特徴は、高度経済成長を遂げただけでなく、同時に所得分配が平等化したことであった。多くの国で経済発展が所得格差の拡大を伴なったのに対して、日本は例外であり、なぜ日本が経済成長と同時に平等化を達成できたのか多くの研究が行なわれていた。また日本の経済発展を支えた「日本的経営」なるものに対する関心も強かった。このような時代を背景として、外国で日本の経済発展について講演すれば多くの人が集まり、たくさんの質問を受けた。このような講演は1990年代まで続いた。
 しかし、その後、日本に対する関心は急速に薄れていった。1990年代初めにバブルが崩壊し、「失われた10年」と呼ばれたように経済は低迷し、所得格差も拡大していった。日本的経営が日本経済をダメにしたと言われ、日本的経営に対する関心も失われていった。今、日本経済について世界に発信しても関心をひかないのは仕方のないことである。日本が経済成長と同時に平等化を達成できたのは、グローバルな視点で長期的にみるとき、実は歴史的な偶然でしかなかったとも言えそうである。日本的経営に至っては、「鎖国の間に生まれた神秘的な経営手法」と英語で紹介され、年功序列は気配りにしか能力を発揮しない経営者を生み出したとまで言われている。日本的経営は一部放棄したが、専門能力の欠如したトップに権限が集中し、停滞してしまった組織が問題を起こしている。

裸の王様②(『東大学内広報』2020年3月5日 No.1532に掲載されたもの)
 2019年12月にモロッコで開催された「中国・インド・日本の近代化」をテーマとする国際会議に出席した。筆者はインドと日本のセッションに参加したが、インドのセッションが満員だったのに対して日本のセッションは空席が目立った。残念ながら、日本に対する関心は高くなく、それはモロッコに限られたことではなさそうである。
 あるインド人が発表の中で「裸の王様」を取り上げていた。アンデルセン作として知られるが、もともとは10世紀ごろにインドで作られた話で、インドには権力者に対してはっきりと物を言う伝統があるという趣旨だった。「裸の王様」は次のような構造になっている。おしゃれ好きな王様が、詐欺師に騙されて「愚か者には見えない服」を「着る」。庶民は王様が裸であることを知っているが、黙っている。ところが、ひとりの子どものことばをきっかけに大騒ぎになる。
 この構造は、アマルティア・センのベンガル大飢饉の分析に似ている。庶民が飢饉に苦しんでいたとき、ベンガルの役人はその実態を過少報告し、宗主国であるイギリス政府はその報告を信じて何も対策を立てず、飢饉を悪化させた。報道規制のため新聞は飢饉の実態を報道しなかったが、ある新聞が社説で飢饉を取り上げ、イギリス政府の無策を非難する。イギリスの人々は政府を追及し、ようやく対策が立てられ、飢饉は収束する。新聞はベンガルの人とイギリスの人を結び付ける役割を果たした。
 社会的不正義を取り除こうとするとき、人と人を結び付けるのは有効な方法である。コーヒー価格が暴落し、途上国のコーヒー農家が貧困に喘いでいるのに、何も知らない日本の消費者は美味しいコーヒーを楽しんでいる。フェアトレードは、両者を結びつけることで途上国の貧困問題を解決しようとする。
 インド人の発表者は「声を上げること」に注目し、筆者は「人をつなぐこと」に注目する。「議論好きなインド人」(アマルティア・センの著書名)と、物静かな日本人は同じ関心を持ち、共同研究の準備を始めている。
(出所)https://www.u-tokyo.ac.jp/content/400137368.pdf 最後のページにあります。

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