吉野雪緒

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お化け時間の蛇

 夕方の五時半になると、ざらついた「夕焼け小焼け」が流れてくる。丘の麓の小学校のスピーカーから流れ出した「夕焼け小焼け」は、反対側の丘にぶつかって、丘の間にみっしりと建物が肩を並べている街に響き渡っている。  お化け時間の合図だ。  奇特な観光客が去り、子供が家に戻り、がらんとした路地が不思議な艶を帯びる。それは「お化け時間」のことを頭に置いていないと気づけない。  たとえば、柘榴の花が咲くお寺の地蔵がひとつ消える。代わりに、よく太った狸が石鉢の水面をのぞいている。同じ顔

    • 「こんな本を見つけた」と自慢してくる人はいい。しかし「あなたが好きそうな記述がある」と続ける人には閉口する。とりわけ、長々と会話を続けたがる人に顕著だが、そういう人に限って、私という人間を見誤っているのである。

      • 読書は自身の精神的要請によって行われるべきものだ。とりわけ、大人になってから「読め」と言われたものを渋々読んでいるのは、小学生が嫌々教科書を読んでいるのと、何ら変わらない。いつ、何を読むかは己の中の情動に任せるべきである。

        • 真空地帯

           春の花なら梅が一番好きだ。沈丁花が咲き始めた公園の灰皿の傍らで、茶けた花がわずかに残るだけの木を見ながら、僕は考える。週に一本吸うか吸わないかという煙草は、ファスナーつきのビニール袋にしまっていても少し湿気っている気がする。  昼間は近所で働く大人が休憩し、夕方は子どもがブランコを漕ぐ公園は、住宅街の中の余白だ。煙草の先から立ち上る煙が春の風に融けていくのを眺めながら、僕はついさっき馴染みの編集者と話した内容を思い出していた。  僕らが会うときはだいたい、青いテント屋根に

        お化け時間の蛇

        • 「こんな本を見つけた」と自慢してくる人はいい。しかし「あなたが好きそうな記述がある」と続ける人には閉口する。とりわけ、長々と会話を続けたがる人に顕著だが、そういう人に限って、私という人間を見誤っているのである。

        • 読書は自身の精神的要請によって行われるべきものだ。とりわけ、大人になってから「読め」と言われたものを渋々読んでいるのは、小学生が嫌々教科書を読んでいるのと、何ら変わらない。いつ、何を読むかは己の中の情動に任せるべきである。

        • 真空地帯

          出掛け際咄嗟に掴んだ荷風の間に、早逝した作家の作品の題名が物々しく書かれた栞が挟んであった。「あめりか物語」を読みながら、いったいどうしてあの作品はこんなにももてはやされたのだろうと考えてみる。勿論私もその作品に感嘆したが、最初に読んだときには、ここまで流行ると思っていなかった。

          出掛け際咄嗟に掴んだ荷風の間に、早逝した作家の作品の題名が物々しく書かれた栞が挟んであった。「あめりか物語」を読みながら、いったいどうしてあの作品はこんなにももてはやされたのだろうと考えてみる。勿論私もその作品に感嘆したが、最初に読んだときには、ここまで流行ると思っていなかった。

          2017年3月13日の「朝日俳壇」について

          今朝の朝日新聞の「歌壇」「俳壇」は東日本大震災を題材にしたものが多かったように思われる。そのうち、ある俳句の扱いについて非常に「違和感」を覚えた。 福島や今も中也の雪が降る(いわき市・坂本玄々) この一首について、選者の大串章氏は「汚れつちまつた悲しみに……」について言及しているが、それは「今日も小雪の降りかかる」までにとどまる。 また、3月11日「社説」を書いた谷津憲郎氏も自身のTwitterでこの俳句を取り上げている。 私が「違和感」を覚えるのは、この俳句の扱いがあ

          2017年3月13日の「朝日俳壇」について

          二十代の命日

           小説、戯曲、短歌、詩と書いてきて、どうも、自分は随想というものを書くことが、たいそう苦手であるらしいということがわかった。詩歌によって赤裸々に心中を語ることは(一部の話題を除いて)苦痛とは思わないのだが、それが全くの散文となると、小説の登場人物に託さなければ、語れないのである。  かつて神通川のほとりにある学校に通っていた頃、太宰治に傾倒した。最初は、少年期特有の熱病に罹って、『人間失格』という文字に惹かれただけであった。しかし、『斜陽』や『晩年』などを読み、彼の「書き方

          二十代の命日

          露助

          「露助が新堀川で溺れて死んだがやと」  朝、台所に降りてきた私が新聞を手に取るが早いか、父がそう告げた。 「酒でも飲んどったがいけ」 「酒飲んで、自転車ごと川に落ちたがやと」  父の口調はどこか嬉々としていて、この陰鬱で退屈な田舎で起こった「事故」を歓迎しているのが感ぜられた。ロシア人を蔑んでいう「露助」という言葉を、大体の大人は平然と使っていた。  新湊という、富山市と高岡市に挟まれたこの細長い土地の経済は、海運と化学・金属工場、米作とに支えられている。海へ向かう道路がコ