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第1章  戦時体制が戦後に生き残る(『戦後経済史』全文公開:その2)


『戦後経済史』が刊行されます(日本経済新聞出版社、2019年4月1日)。「はじめに」「プロローグ」「第1章」を全文公開します。なお、本書は,『戦後経済史』(東洋経済新報社、2015年6月)を文庫化したものです。


1 焼野原からの再出発

雑草のように生き延びる
空襲によって、東京は平らな土地となってしまいました。その焼野原に、庶民はバラックを建て、雑草のように生き延びていきました。
バラックとは、災害後などに建てられる仮設建造物のことです。私の母も早いうちに疎開先から戻り、小さな洋品店を始めました。家を建てる資金は、区役所から復興資金を借りたそうです。
土地は借地です(その当時の東京では、所有でなく借地が普通の形式です)。契約が終わったときだったのでしょうか、母が「差配さん」(地主と借地人の間を取り持つ仲介者)と話していた嬉しそうな顔を覚えています。
戦後すぐに土地と資金を借りて商売を始めたことで、私たち一家も1940年体制の恩恵を受けることになりました。後述のように、土地については、借地権が保護され、所有権よりも強い権利になっていました。いったん土地を借りてしまえば、「正当事由」がない限り追い出される心配はなくなり、一方的に賃料を値上げされることもなくなっていたのです。
また借りたお金については、戦後のインフレで実質的な価値が減少しました。私たち一家は、貧しいながら、そうした社会全体の流れから利益を受けることができたのです。

軍国少年の遊び:スイライ
焼野原は、子どもたちにとっては天国でした。木造の建物はすべて焼失し、残っているのは、コンクリート造りの学校と電報局、それに質屋の石造りの倉だけ。銭湯は建屋がなくなって、湯船とタイルの床がむき出しになっていました。ここは、砦になったり、宮殿になったりしました。残骸の中から火災の高熱で奇妙な形に焼けただれたガラスの破片を掘り起こして宝物にしたり、立ち入り禁止になっている学校の屋上に忍び込んで、レンガの罠で雀を捕らえようとしたりしました。
水道管が壊れて流れ出した水で浅い池(子どもたちにとっては湖)ができており、湖畔にはオシロイバナが咲いていました。いまでも、オシロイバナを見ると、この「湖」を思い出します。東京のどこからでも富士山がよく見えました。
その頃毎日のようにやっていたのは、スイライという遊びです(われわれは「スイライヨコ」と呼んでいたのですが、「ヨコ」が何かは不明。水雷艇役が野球帽の庇を横にしていたからかもしれません)。
2組に分かれ、各軍、戦艦が1隻(ガキ大将がなる)。駆逐艦が4、5隻。残り10人程度は水雷艇になります。駆逐艦は戦艦にタッチされれば沈没。水雷艇は、駆逐艦にタッチされれば沈没。そして、戦艦は水雷艇にタッチされれば沈没。戦艦は駆逐艦に護衛されて出陣し、敵の陣地まで辿り着けば勝ちというのがルールです。
水雷艇は、足が速くないとすぐに敵の駆逐艦に捕まってしまうので、機敏でなければできません。私はいつも水雷艇をやっていました。「最も弱い存在であるのに、戦艦を沈められるのは、水雷艇だけ」という設定が気に入っていたからです(いまになって振り返って見ると、その後も私は、水雷艇であり続けたいと念じて来たと思います)。
野球をしようにも道具がなく、地面は瓦礫だらけだったので、できたのはこれしかなかったという事情もあるのですが、それにしても、この遊びは軍国主義そのものです。つまり、平和国家は、子どものレベルには及んでいなかったわけですね。
「この頃の子どもたちの楽しみは紙芝居だった」とよく言われます。確かに紙芝居は来ていましたが、私はあまり面白いと思ったことがありません。それよりは、山川惣治の「少年王者」、小松崎茂の「地球SOS」、永松健夫の「黄金バット」、そして何よりも、雑誌『少年クラブ』に連載されていた横井福次郎の「ふしぎな国のプッチャー」に心を躍らせていました。
あるとき、フランスの作家が書いた『海底二万里』というとても面白い本があることを知り、本屋に置いてあるのも見つけて、是非買ってほしいとねだったのですが、かなえられず、泣き寝入りしたことがあります。翌朝目覚めて、枕元にその本が置いてあるのを見つけたときの嬉しさは、いまも忘れません。
食べ物での憧れは、桃の瓶詰。バナナは手に入らなかったので、「バナナの皮で滑った」などという昔話を聞くと、羨ましく思いました。メロンが食べられるのは、病気になったときだけ。終戦直後には茶碗の中に米粒より麦のほうが多かったのですが、コメの比率が段々と増えていきました。アイスキャンディーは、赤痢になるというので、禁止されていました。
1年に一度の大掃除の日には、家族総出で畳を上げ、粗大ゴミを道の真ん中にうず高く積み上げました。車の交通が少なかったから、こうしたことができたのです。
浅草寺の観音堂の裏に、船に乗った形の仏像が金網で囲われてありました。猛火の中で焼け残ったのですから、石像だったのでしょう。金網の外から石を投げ、船に入ったら戦地に出かけている人が帰ってくる、と言われていました。私も石を投げました。父が戦地から戻らず、生死不明だったからです。
小学校の建物は、コンクリートだったため、焼け残っていました(この地下にある防空壕が、大空襲のときに逃げ込んだところです)。しかし、建物には、家を失った被災者が住みついていました。このため授業に使うことができず、私たちは他校の校舎に間借りして授業を受けることになりました。
近代的な建物が廃墟になり、そこを人々が不法占拠しているというのは、文明崩壊を思わせる光景です。後に工業化初期の中国を訪れた際、農民工と呼ばれる地方からの出稼ぎ労働者の家族が、北京駅の駅舎で寝泊まりしている姿を見て、このときのことをまざまざと思い出しました。
いま小学校入学時の写真を見ると、裸足の子が多いのに驚きます。栄養状態がよくないので「はなたれ小僧」が多く、冬には誰もがひび割れやしもやけに悩まされました(しかし、夏が暑くて耐えられなかったという記憶はありません)。結核は不治の病で、それに冒されたら、家族を離れ、職場を離れてサナトリウムに行くしかありませんでした。小学校1、2年生の担任の先生も、結核で私たちのもとを離れていきました。
この頃怖かったのは、飛行機の爆音です。「また戦争が始まるのか」という恐怖にとらわれるのです。そして、「自分はいつ徴兵されるのだろう」と真剣に心配していました。日本のそれまでの歴史を考えると、徴兵されないで一生を過ごすのは難しいだろうと思ったからです。しかし私は、ついに徴兵されることはありませんでした(選挙のとき、母はいつも社会党に投票していましたが、それは社会主義に共感したからではありません。「社会党なら息子を徴兵されることはないだろう」という願望によるものです)。

無傷で残った経済官僚
庶民が焼け跡で懸命に生計を立てようとしていたとき、中央官庁の官僚たちは、戦後経済の基礎を準備していました。まず考えたのは、自分たちの生き残りです。
軍需関連企業を所管し、航空機をはじめとする工業生産物資の調達を統制していた軍需省の役人たちは、占領軍進駐の直前に、役所の看板を「商工省」に掛け替えてしまいました。占領されれば当然、戦犯探しが始まります。軍需という名前を戴いたままでは、組織として生き延びることは到底できないからです。もともと軍需省は、1943年に商工省と企画院が統合されてできた官庁ですから、元の名前に戻したわけです。
この雲隠れ作戦の指揮を執ったのは、椎名悦三郎事務次官。看板掛け替え作業が終わったのは、45年8月26日。連合国軍最高司令官ダグラス・マッカーサーが厚木の飛行場に降り立つ4日前のことです。なんという変わり身の早さ!
こうして、商工省は、占領下でほとんど無傷で存続することができました。その後、名称を通商産業省と改め、民間企業に対して勢威をふるうことになります。この作戦がうまくいったのは、占領軍に日本の官僚機構についての知識がなく、各省庁が戦時中にどんな仕事をしていたのかを、詳しく知らなかったからです。
なお、当時の日本では、敗戦を「終戦」、占領軍を「進駐軍」と呼び換えたように、さまざまな言い換えが行われていました。占領軍の総司令部は、アメリカの文献を読むとSCAP(Supreme Commander for the Allied Powers:連合国軍最高司令官総司令部)となっていますが、日本では「GHQ」(General Headquarters:総司令部)と呼ばれました。
同じ頃、大蔵省は「B円阻止」に躍起になっていました。B円とは、占領軍が発行する簡易通貨の軍票のことです。
戦時中、日本軍は占領地で軍票を発行していましたが、過剰発行によって現地経済を混乱に陥れていました。同じことが日本で行われれば、日本政府は通貨の発行権を奪われるだけでなく、日本経済そのものが打撃を受けることになりかねない。
米軍はすでに日本で使うための軍票を印刷ずみで、船積みも終えた状態でした。それが日本で使われるのを阻止するために、懸命の努力が行われたのです。占領経費を日本円で供与することを条件に、軍票支払いの停止を要請したとされますが、詳しい資料が残っておらず、具体的にどのような交渉が行われたのかは、分かりません。
大蔵省の作戦は、大成功でした。ごく一部が使われただけで、占領軍は日本本土での軍票の使用をあきらめ、軍票を積んだ船は目的地を変更して沖縄に向かったのです(52年に本土の占領が終わった後も、沖縄は長く米軍支配下に置かれ、法定通貨になったB円は、58年にドルに切り替わるまで、使われることになります)。こうして日本の通貨発行権は、占領軍の手に握られずにすみました。
占領軍は、日本から戦争遂行能力を奪うため、日本の官庁や企業を改革しようと試みました。当然のことながら、軍部は解体されました。「官庁の中の官庁」と言われていた内務省も解体され、建設省、労働省、地方自治庁、国家公安委員会など、多くの省庁に分割されました。警察は、アメリカ型の地方公共団体が管轄する自治体警察に衣替えしました。ただしこれについては警察側の抵抗により、自治体警察を統括する警察庁が中央官庁として残りました。
組織再編と同時に、これらの省庁で戦時中指導的立場にあった者の多くが公職から追放されました。
しかし、大蔵省や商工省など、経済官庁はほとんど無傷で残りました。日本全体で20万人以上が公職を追われた中で、大蔵省で追放の対象となった者は、わずか数名しかいません。
このような結果となったのは、占領軍が日本の官僚組織の実態を理解していなかったためです。戦時経済の実態を操っていたのは大蔵省や軍需省(商工省)などの経済官庁だったのですが、占領軍はそうした構造を理解していませんでした。
彼らがいかに日本の官庁の実態に無知であったかは、ほとんど実権のなかった文部省を、戦時教育を強制した戦争責任省と考え、廃止を検討したということからも見てとれます。
公職追放は戦争責任の追及が目的でしたが、経済官僚については、こうして表面的なものに留まりました。戦時経済体制を支えたテクノクラートは温存され、その後も戦後経済をコントロールしていくこととなります。

占領軍民主化政策の実態
占領軍は旧財閥企業の解体にも着手しました。1946年に発令された戦争犯罪人に対する公職追放令に続き、翌47年に、有力企業や軍需産業の経営陣も追放の対象となりました。この追放令は、「財閥が戦争を起こした」という占領軍の認識から発せられたものです。
日本の官僚機構や経済システムについて十分な知識を持たなかった占領軍は、日本社会の構造を、戦前のアメリカのアナロジーで捉える傾向がありました。アメリカではスタンダード・オイルを興したロックフェラーなど、財閥が国政に大きな影響力を持っています。日本も同様と考え、三井、三菱、住友、安田などの大財閥を解体し、同族支配を排除しようとしたのです。日本の零式戦闘機は米軍から「ミツビシ」と呼ばれ、三菱の名はよく知られていました。そういったことも、財閥が標的とされる一因だったのでしょう。
経営陣を追放するだけでなく、大企業については企業分割も行いました。47年の「過度経済力集中排除法」により、日本製鐵、三菱重工業、王子製紙などがその対象となりました。アメリカでは、寡占的な大企業は公平な競争を妨げ、政治に介入する「巨悪」であるという認識があります。その考え方を日本にも適用したのです。
しかし、これら私企業に対する改革は、不徹底に終わりました。分割した企業も、占領が終わると、多くは合併して元に戻ってしまいました。
金融機関は、ほぼ無傷で残りました。これは、占領軍が、戦時期に作られていた銀行中心の金融システムのことを知らなかったためです。アメリカでは、戦前の日本と同様、企業の資金調達は株式や社債など、市場からの直接金融が中心になっています。そして、日本の都市銀行に相当するような、全国に支店網を持つ大銀行は存在せず、銀行は基本的には州ごとに営業していました。このため「大銀行が企業を資金面から支配する」という日本型の仕組みを理解していなかったのです。
占領軍が日本の銀行について、いかに無知であったかを示すエピソードがあります。本章の2で見るように、復興金融金庫が大々的に融資を行い、それが高率のインフレを引き起こしたのですが、これを問題視したGHQ経済科学局長のウィリアム・マーカット少将(高射砲隊の隊長だった職業軍人)は、「興銀はインフレの元凶だ」と言ったのです。しかし「閣下の仰るのは復金のことではありませんか」と指摘され、あっさり引っ込めてしまったというのです。
当時の占領軍の事情について、エレノア・M・ハドレーが『財閥解体―GHQエコノミストの回想』(東洋経済新報社)の中で明らかにしています。彼女は大戦中にハーバード大学で経済学の博士号を取得して国務省に勤務し、日本の占領政策にかかわることになった経済の専門家です。ハドレーによれば、そもそも占領軍の軍人の大部分は、日本経済のことは何も分かっていなかった。日本語の文献を読めないため、日本の実情を何も知らない。ルース・ベネディクトの『菊と刀』を読んだという程度の知識でやって来た、というのです。『菊と刀』は、日本文化論であって、経済を分析したものではありません。
占領軍の将校が日本人と話すときは、通訳をつけるか、英語のできる日本人と話します。通訳には経済の知識はなく、英語のできる日本人はほぼすべて官僚です。彼らは自分たちに都合のよい情報しか占領軍に伝えなかったでしょう。ですから、日本の官僚にとって占領軍をコントロールすることは容易でした。官僚たちは、自分たちが立案した改革案を占領軍の権力によって実現すべく、情報を操作できる立場を利用して司令部を誘導していったのです。

鬼の居ぬ間の公務員改革
GHQ職員として来日し、帰国後にコロンビア大学教授となった文化人類学者ハーバート・パッシンも、占領軍が日本経済について何も知らなかったと述べています。
占領軍は公務員制度についても民主化改革を進めようと考え、1947年6月、ブレイン・フーバーを団長とする顧問団を招聘しました。フーバー顧問団は、来日後、職階制の確立と人事院の新設、公務員の労働権の制限などを定めた国家公務員法の草案(フーバー草案)をまとめ、当時の片山哲内閣に勧告しました。
ところが、フーバーがアメリカに帰国している間に、日本の官僚たちは、人事院の独立規定や職員のストライキ権を認めない規定など、自分たちの意に染まない部分を削除・訂正してしまったのです。訂正された草案は、フーバーが日本に戻ってこないうちに法案として国会に提出され、47年10月「国家公務員法」が制定されました。草案が骨抜きにされたことを知ったフーバーは、大変怒ったと言われますが、後の祭りでした。これは、「鬼の居ぬ間の公務員改革」と言われます。
フーバー草案では、公務員の採用や昇進に関して集中的な権限を持つ組織として人事院を作り、そこで公務員の人事を集中的に行うことになっていました。しかし、日本の中央官庁では、各省庁が独自に採用や昇進を決めていました。各官庁は自分たちの組織の人事権を手放したくないと考え、その部分を削ってしまったわけです。この結果、人事院は作られたけれども、名目的な存在に止まり、官僚の採用や昇進は、その後も各官庁の自由裁量に任されることになりました。
パッシンは、こうなった基本的原因は、「占領軍が日本の官僚制度についてよく知らなかったことだ」と述べています。人事院に人事権を一任する公務員改革とは、当時のアメリカの公務員制度に対する改革案でした。
アメリカの場合、公務員の上級職はポリティカル・アポインティ(政治家が任命するポジション)です。本来は能力の高い適任者を抜擢するための制度なのですが、現実には猟官制度(スポイルズ・システム)となり、政治家が自分の選挙で資金や集票の面で貢献した者に報償として高官の地位を与えるための道具になっています。
これは、アメリカの公務員制度の大きな問題と考えられています。政権が交代すると各官庁の主だった官僚も交代する。その都度、利害関係に引きずられた人事が行われる。そうした弊害をなくして人事を中立化し、能力本位の採用や昇進を行うためには、人事院という中立的な機関を設けることが必要だ。こうした問題意識から出てきたのが、占領軍の公務員制度改革案だったわけです。
しかし、日本では、そもそも官僚の政治任用という制度が存在していないのです。だから、日本の官僚はまじめに取り組む気にもなれず、改革を骨抜きにしてしまった。パッシンはそう述べています。私もその通りだと思います。

戦時テクノクラートの生き残りは、ドイツも同じ
同じ第二次世界大戦の敗戦国であっても、「日本では戦時下の指導者が戦後も生き延びたのに対して、ドイツではナチとその協力者が一掃された」と言われます。
ドイツでは、ナチス政権に抵抗したケルン市長コンラート・アデナウアーが戦後の西ドイツの初代首相となったのに対して、日本で戦後まもなく首相になった吉田茂は、戦前に外交官であったことがその象徴だというのです。
ドイツに対しては、戦争責任の追及が的確になされ、また権力機構のあり方も正確に理解されていたため、「モーゲンソー・プラン」と呼ばれた占領政策にしたがって戦時期の中央政府が完全に解体され、ナチスの残党が徹底的に排除された、という考えです。
確かにそうした側面はあったでしょう。しかし、戦時中のドイツの官僚機構が完全に破壊されたのかというと、必ずしもそうではなかったようです。
トニー・ジャットは、『ヨーロッパ戦後史(上、下)』(みすず書房)の中で、西ドイツにおいても、戦後経済政策の実施にあたって、ナチ時代からのテクノクラートが重要な役割を果たしたと指摘しています。第二次大戦後、敗戦国の官僚機構が温存されたのは、必ずしも日本だけの特殊事例ではなかったようです。

農地改革は戦時改革だった
占領政策の大きな柱となったのは、1947年から50年にかけて実施された農地改革です。これは、マッカーサーが45年12月に日本政府に送った「農地改革に関する覚書」に基づいて始まったとされます。
しかし、これもじつは、生き残った革新官僚たちが仕組んだものです。法案は、45年に準備されていました。この年、閣議にも提出されています。しかし、その内容は革新官僚たちが考案したものから後退し、大幅に緩和されたものでした。そこで官僚たちは占領軍を誘導し、この「第一次農地改革」では不徹底であるとの声明を発表させ、オリジナルの改革案に近い急進的な内容の農地改革を、46年に「第二次農地改革法」として農地調整法改正と自作農創設特別措置法を公布、翌年から実行に移したのです。
第二次農地改革法は、不在地主のすべての貸付地および在村地主の貸付地のうち一定面積を超える農地を政府が強制的に買い上げ、小作人に売り渡すという内容でした。これによって、戦前の農村を支配していた大地主たちは土地を失ったのです。
このとき地主に対しては、代金として政府から交付公債が渡されました(「交付公債」とは、現金支出に代えるために国が交付する公債です。譲渡はできませんが、保有していれば、将来現金を受け取ることができます)。この公債は、その後のインフレによって、価値をほとんど失いました。

大企業の経営者は内部昇進者に
現在まで続く「日本型経営」と呼ばれる経営スタイルも、戦時中に原型が作られたものです。
第一に、日本では、大企業経営者のほぼすべてが、内部昇進者です。日本の大企業の「社長」とは、「出世レースに勝ち残った労働者」なのです。他方、アメリカでは、経営者は一つの職業であり、社外の人間が招かれてその地位に就くことが稀ではありません。ときには競合他社から引き抜かれてくることもあります。
じつは、日本でも戦前には、経営トップは大株主の意向で企業外から連れてこられるのが一般的でした。それが現在のような形に変わったのは、戦時期における企業改革の結果です。
戦時中、政府は1937年の「臨時資金調整法」や40年の「銀行等資金運用令」、42年の「金融統制団体令」等により、金融機関の融資を統制し、軍需産業への融資を優先させるとともに、直接金融から間接金融への転換を進めました。企業に対しては、38年の「国家総動員法」などに基づき、株主への配当を制限しました。このため株価は低迷し、企業は資金の調達を銀行に頼らざるを得なくなったのです。
こうした一連の政策により、戦前には高かった直接金融の割合が戦時中に急低下し、間接金融が主体となりました。企業において所有と経営の分離が進み、企業経営に対する大株主の影響が低下し、銀行の発言力が高まりました。政府は銀行による資金配分を通じて、間接的に民間企業を支配することができるようになったのです。
企業側では、株主が経営に関与できなくなった副次効果として、経営トップが自らの意思で後継者を選ぶ習慣が定着しました。その結果、大企業の経営者は内部昇進者ばかりになっていったのです。

会社と運命共同体の労働組合
第二は、日本の労働組合の特殊性です。先進諸国の労働組合は、アメリカでも欧州でも、産業別に組織されるのが普通です。戦前の日本でも、労働組合は産業別に作られた企業横断的な組織でした。ところが戦後に生まれた日本の労働組合は、企業別の組織がほとんどです。
なぜなのでしょうか。それは戦時中に作られた組織の構成を引き継いでいるからです。母体とは、38年にできた「産業報国連盟」です。そして、40年には全国団体として大日本産業報国会が結成されました。これは、労働争議の急増を受けて、労使関係調整のために政府主導で設けられた制度です。労使の懇談と福利厚生を目的とし、事業所別に作られ、労使双方が参加していました。内務省の指導によって急速に普及しました。
産業報国会という新しい労使協調の仕組みが定着すると同時に、それまでの労働組合は、戦時中に強制的に解散させられていったのです。
45年、マッカーサーによって労働組合の結成を含む「五大改革指令」が指示されたとき、新たに多くの労働組合が誕生しました。ところが、そのほとんどは、それまであった産業報国会を母体とし、これを衣替えしたものでした。
企業別組合は、会社と運命共同体です。したがって、経営者と対決するのではなく、協調して企業を成長させようとする意識を強く持っています。戦後の高度成長の過程で、こうした性格を持つ日本の労働組合は、それぞれの企業の成長に大きく寄与しました。
このように、戦後の日本を特徴づける企業の経営スタイルと労使関係は、そのいずれもが戦時期にルーツを持っているのです。それまで欧米型であった日本の民間企業は、戦時改革の中で大きく変質し、それが終戦直後の労使対決を経て、高度成長が始まった50年代半ばから、労使協調を特色とする「日本型経営」スタイルに収束していったのです。
日本型経営の企業は「経営トップから現場の作業員まで、全員が共通の目的のために協力する」という意味で、軍隊と同じ性格の組織です。ここで言う共通の目的とは、まず組織としての生き残りであり、次に同業界の競合との戦いに勝ち、シェアを拡大することです。こうして見ると、会社に強い忠誠心を持って働く日本企業の従業員を指す「企業戦士」という言い方は、比喩以上の意味を持っていることが分かります。

芦ノ湖は神秘の湖だった
終戦から1950年代初め頃まで、日本の交通事情はきわめて劣悪でした。50年3月、東京―沼津間に湘南電車が開通しましたが、最初は故障ばかりしていたので、「遭難電車」と呼ばれていたほどです。
その頃、戦後で最初の家族旅行をしました。目的地は箱根。小田原までは開通直後の湘南電車で行き、あとはバス。木炭を燃料とする木炭バスに乗り、大変な苦労の末に芦ノ湖まで辿り着きました。湖の周りには何もありません。この当時、芦ノ湖は山奥にある神秘の湖だったのです。
小学校の修学旅行では、伊豆下田に行きました。電車で行けるのは伊東までで、残りはやはりバス。途中、難所で知られる天城峠を抜けたのですが、崖の急カーブを曲がる際、車体の後ろが道からはみ出して空中に突き出していました。そして、地の果てかと思われる石廊崎まで行ったのです。
その後の家族旅行は、伊豆の片瀬や稲取、そして長野の湯田中など。千葉の稲毛海岸はもとより、東京の大森でも海水浴ができました。
社会資本や生活のインフラは、いまでは想像もできないほど貧弱でした。保健所や病院は、混雑して1日中待たされる。電力事情も劣悪で、停電が毎日のようにありました。
道では馬が荷車を引いており、水洗便所は普及しておらず、ゴミ箱は外に置いたままだったので、あたり中ハエだらけ。家の中にハエ取り紙がぶら下がっていました。
日本人が乗っている自動車は、バス、トラックとオート三輪以外は少なく、米軍のジープが目につきました。大きな交差点では、MP(ミリタリー・ポリス=米陸軍の憲兵)が交通整理をしていました。国産乗用車は存在せず、街を走っている乗用車のほとんどがアメリカ製でした(国産乗用車の生産制限解除は49年)。私はそれらのメーカー名をすべて知っていました。カイザー=フレーザーとかスチュードベイカーなど、いまはないメーカー名を聞くと、とても懐かしく思います。あるとき、ポルシェのスポーツカーから長靴を履いた男が颯爽と降り立つところを見て、「いつか同じことをしてみたい」と思いました。
49年10月に、アメリカの野球チーム、サンフランシスコ・シールズが来日し、日本の「職業野球」(いまで言うプロ野球)との親善試合を行いました。全日本軍は、川上哲治、青田昇、大下弘、別当薫、別所毅彦、スタルヒンなどの豪華メンバーを揃えたにもかかわらず、まったく歯が立たずに全敗。後楽園球場で当日だけ特別販売されていたコカ・コーラの不思議な味は、私の最初の「アメリカ経験」です。
わが家でさえ住み込みのお手伝いさんがいたことを考えると、労働の需給はいまでは想像もできないほど緩やかだったと思います。
この頃のいつか、私たちの家族は、45年6月にフィリピン、ミンダナオ島で戦死という父戦死の公報を受けました。輸送船が攻撃を受けたのだと思われます。遺骨が入っているという木箱を渡されました。振るとカラカラと音がする。しかし、遺骨などあるはずはありません。石ころか木片が入っていたのでしょう。
6月戦死だとすれば、3月には内地にいて、東京大空襲のことを知っていた可能性があります。家族がどうなったかと、どれほど心配したでしょう。
小学校高学年になって、私は毎週日曜日にクラスの仲間を引率して、神田万世橋の交通博物館に通っていました。一日中そこで過ごして調べた結果を、教室に貼り出すのです。
私が小学校に入学したのは6・3・3学制発足の年です。その意味で、私たちの世代は、戦後教育の申し子のようなものです。しかし、私には、民主主義教育や平和教育を受けたという実感はありません。その当時の公立学校に、平等主義的な雰囲気はまったくありませんでした。級長も、生徒会委員も、委員長も、生徒による選挙という民主主義的な方法で選ぶのでなく、先生の指名です。卒業式で送辞や答辞を読む役もそうです。ここには、民主主義のかけらもありません。
学芸会での出演者も先生の指名です。劇であれば、主役、わき役、その他大勢という役割分担が当然必要になるので、全員が平等ということはあり得ないのですが、何時の頃からか、日本の学校の学芸会は、全員平等劇になってしまいました。
学習塾がないため、公立の中学校で、当たり前のように補習授業をやっていました。その際には、テストの成績で一番から順にクラス分けをするのです。いまなら大問題でしょうが、当時はあからさまな能力主義が、なんの疑いもなく通用していました。これは、戦後教育というより、戦時教育ではないでしょうか。
この当時は、映画をたくさん見ました。東劇でロードショウの洋画を見て、帰りに末広レストランで洋食というのは、年に一、二度の贅沢でした。白いテーブルクロスの上にナイフやフォークが置いてあるテーブル席につくのは、小学生にとっては緊張の瞬間です。
「石の花」(ソ連で作られた最初の「総天然色」映画の一つ。日本公開は47年)で、トカゲが銅山の女王に変身する場面が、強く印象に残っています。ずっと後になってDVDができ、ドキドキして見ましたが、神秘性は消え去っていました。二度と見られぬと思っていた映画を見られる技術の進歩はいいことですが、神秘性を剥いでしまう面もあるのですね。




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