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「両手にトカレフ」・ブレイディみかこ

「両手にトカレフ」は「ぼくは「イエローでホワイトでちょっとブルー」でおなじみの、ブレイディみかこさんの小説です。


イギリスの貧困家庭に育つミアが、図書館でホームレス風の男に「君のような女の子が読んだらおもしろい本だと思うよ」と「金子文子」の本を勧められる。
金子文子は日本のアナーキスト、らしい(私は知りませんでした)。
そして「金子文子」に対してなんの先入観もないミアは、彼女の自伝に心惹かれてゆく。

ミアとチャーリーの母親はアルコール中毒。
二人はゾーイのカフェで提供される食事を食べて生活する。
スマホは持っていない。ショッピングモールにいくお金もない。
だからミアは図書館で時間をつぶす。
ソーシャルワーカーのことを「ソーシャル」と言って毛嫌いする。
ソーシャルは、自分があきらめているものを「変えよう」として、とんでもないことになってしまうから。
ミアは強くてアナーキストで絶望していて、そして「両手にトカレフ」を持っていて生きている。
「ミアのラップがクールだから、リリックを作って」というウィルにもミアは振り向かない。
彼女がシンパシーを感じるのは、本の中で生きている「フミコ」だけ。


たとえば、ミアは日本にもいるでしょう。
経済もズタズタで貧困層が確実に存在して、どこかで陰惨な事件が起きていて。
そして「貧困の中から抜け出す方法が模索できない」国。
これはイギリスだけの問題ではないだろうけれど、どこか「よその国の物語」で。
それはもしかしたら、「日本でない国の物語として描きたいブレイディみかこ」の気持ちなのかもしれないとも思いました。

ラストまで読んでも物語としての大きなカタルシスがない。

というと、それはよくない表現に聞こえるかもしれないけれど。
いい意味で、希望が湧き上がったとしても「どこかで成功エンディング」に落とし込むようなところがない作品だと思います。。

それについて、ちょうどYahooでインタビュー記事を見つけて、なるほどなあと思いました。



本を読みながら、わたしは若くてやり場のない世界を生きてきました。
強く、手を握りあうようなシンパシーでじゃなくて。
自分でも意識しないくらいに、ゆっくりと心の中に染み込んで、それがいつのまにか自分自身になっているような、そんなシンパシー。
本にはそういう「けして激しくはなく、ゆっくりだけど確実に心に染み込む力」がありました。

若さや、やり場のなさを語るには、わたしは年を取りすぎたかもしれないけれど。
それでも、あのときのあの感触はよく覚えています。

そうして。それが今の自分を形作っているのも、ものすごーくよくわかっていて。
その激しい気持ちを思い出させてくれるような作品でした。



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