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喪中葉書をつくった

 「わたしの母がなくなったことと、わたしが友人に新年のご挨拶をすることはまったく関係のないことだと思う」
 「でも、人はそういうふうには思わないよ。なんで喪中なのに年賀状を出すんだろうって思うよ」
 というやりとりを数日前にオットと行った。

 オットが「今年は年賀状ではなく喪中葉書だから早く用意しないと」と言ったのだ。
 「あなたの友人やあなたの仕事関係の人には、よけいに奥さんのお母さんのことなんて関係ないと思うのに?」
 「そんなことはないよ。義理のお母さんがなくなったので年賀状は欠礼という葉書は毎年けっこう多いよ。自分は年賀状出すつもりだったの?」
 「うん。そうだよ。だって、年に一回のやりとりを楽しみにしてる人だっているのに。味気ない欠礼葉書なんて送ったら、楽しみも何もないじゃん」
 半分は嘘である。実は年賀状でさえもおっくうでいつかは辞めようと思っている。
 ただ、昔からのネットの友人の数名に実名の年賀状を送っており、これはたしかに「特別感」があるのだ。
 ハンドルネームでネット上のやりとりをしている関係なのに、年に1日だけ、本名で紙の年賀状である。自分の描いた絵や写真を小さくアップしたりcanvaでデザインしたり、それは間違いなく「ささやかだけど特別なこと」なのだ。
 それを味気ない欠礼葉書に変えるのはなんだかとてもやるせなかった。

 オットとわたしの母は特別に仲がよかったわけではない。
 お正月にわたしは母のところに行くけれど、オットは顔を出さなかった。
 翌日仕事に出るので夜遅くまで外出していたくないことと、わたしの兄弟の集まりに気後してしまうことが原因だった。
 ただ、オットの通勤路と母の散歩道は重なっていたので、しょっちゅう町なかで出会って会話はしていた様子である。
 それで十分じゃないか。
 母の散歩のとちゅうに買い物の荷物の重さを気遣ってくれたり、好意的に会話してくれる関係だけで、わたしには十分だったのだ。

 「だから、年賀状ださないほどに悲しむ必要はないと思うのに」
 わたしはいまだに休日に遊びに行く実家をなくしてさみしい思いをしているけれど、オットにはそれもまた関係のないことである。
 「でも、世間の人がちゃんとやっていることをやらないとおかしいと思うよ」。

 ああ。またそれか。
 メンドクサイ。
 オットはこんなことをスキップするほど好きには生きてないのだ。
 それはそれでいいことだと思う。
 
 でも、オットが欠礼葉書で、わたしが年賀状ってよけいおかしいよなあ。

 と思いながら。
 仕方なく妥協した。

 今日、喪中葉書を印刷した。
 オットの文面とわたしの文面にわけて。

 他人を一緒に住むことは妥協の繰り返しである。

 まあ、妥協だけじゃなくて、助かっていることもあるから、あんまり文句ばかりでもいけないと思うのだが。

 そういうわけで今年は喪中葉書です。

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