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ネガティヴ・ケイパビリティ

ネガティヴ・ケイパビリティ(negative capability 負の能力もしくは陰性能力)とは、「どうにも答えの出ない、どうにも対処しようのない事態に耐える能力」、あるいは、「性急に証明や理由を求めずに、不確実さや不思議さ、懐疑の中にいることができる能力」を意味する。


この言葉に初めて出会ったのは、プレイワークに関する海外の文献の中でだった。

その中で、プレイワーカーとして重要な資質、あり方とは何か、という文脈で、はじめて、このnegative capabilityという言葉が紹介されていた。

曖昧さの中に漂い続ける、子ども達へ非審判的な眼差しで関わることの重要性が書かれていた。僕の持っていた価値観が大きく揺さぶられる気がした。

僕が、それまで生きるなか、多くは学校教育の中で身に付けてきた力は、与えられた問題をいかに早く解いていくか、もしくは問いを自分で設定して答えを導き出すこと。

こうした力を身につける過程で、僕は、「問題は解決されなければいけない」、「解決までの時間は早ければ早いほど良いこと」、という価値観を内面化してきた。

しかし、自分が大人として子どもに関わる時に、その価値観を保持しながら、正確に言うとその価値観「のみ」で、子どもに関わることに、何か違和感があると僕は思ってきた。
問題解決を前提とした態度では、子どもを無条件に課題のある存在として、捉えてしまっている自分がいること。今の子どもを見るときに、どうしても未来の視点に引っ張られてしまう。未来のための今であり、今という時間にじっくりと浸ることが出来ない。そんな時間の過ごし方では、何かが溢れ落ちてしまっているのではないか。

教師という仕事に就くことを辞めて、プレイワーカーという道を選んでから、上記のことを考えながら、プレイワーカーとしての自分のあり方を探す手がかりとしてページをめくっている時に、negative capabilityという言葉に出会った。


最近は、日々生活する中で、また子ども達と遊びを生活を共にする中で、この曖昧さの中に漂い続ける力が重要だと、また曖昧さを許容できない自分にも、改めて気づかされている。

例えば、泣いている赤ちゃんをあやす時、そこでは性急に答えを導き出すためのスキルや知識といったことよりも、「どうしてこの子は泣いているのかな?」と不思議がりながら、焦らず、その泣いている姿を抱え込みながら、いつか泣き止む時を信じながらあれやこれやと泣き止む方法を一つ一つ試す姿勢が求められる。

泣き止む方法は、この子以外わからない。そのわからなさに向き合い、いつ終わるのか、なぜ終わらないのかがわからない中に身を置く力。

答えをすぐに見つけるための方法は、僕はよく知っている。でも、答えのない事態に直面した時に自分はどのように反応するのか、それを僕は知らなかった。

実際、そんな事態に直面すると、一刻も早くこの事態を脱したいと思ってしまう自分がいて、そんな事態だからこそ、面白がれる自分もいる。

仕事でも日々の生活でも、自分の苦しみ、人の苦しみに出会う機会は、突然訪れる。

その時に、とれる態度は2つある。
1つは、なんとか早く(自分を)この人を苦しみから救ってあげよう、そのためにどうすればいいだろうか、と考えること。
2つめは、(自分が)この人が抱えている苦しみは一体どんなものだろう、と想像し共にあり続ける姿勢。

前者は、苦しみから解放された状態、という答えに向かって、現実の問題に対処しようとする姿勢。
解決の前提には、この「苦しみ」がどんなものか、を私が想定しなければならない。しかし、この「私が想定する」「苦しみ」が、「その人の抱える」「苦しみ」と異なっていたら、その解決策は的を外したものになるだろう。

後者は、共に「苦しみ」に触れていこうとする姿勢だ。その苦しみの姿が何なのかは、私にもわからない、当人にさえもわからないのかもしれない。良くない状況を良い状態に変える、そんな問題解決の姿勢を拒否する。
そこには、目の前の人の抱える本当の苦しみは、「私」が想定できる苦しみの外側にある、と自分の限界を見極めている謙虚さがあると思う。


年度末に、僕の祖父は、亡くなった。
祖父の死に家族で向き合う時、必要だったのは、ただただ祖父の思い出に身を寄せ、食べ、語らう時間を共にし、悲しみが過ぎ去るのを待つこと。
どうして今亡くなってしまったのかと問いたい気持ちと、この事実を受け入れなければいけない、そう思う気持ちの狭間に居続けることを選ぶこと。

苦しみを抱えた人に出会った時、僕がその人のことをよく知ることが出来たのではないか、その人がよりよく生きる支えになれたのではないか、と実感する時。
そんな時は、「そうなんですか」とうなづきながら、その人のやるせなさや、虚無感、無力感を一緒に抱えるだけしか出来ない時だったりもする。

問題を特定し解決しようとするけど問題の特定すら出来ない、でもその状況に向き合い続けるうちに、事態は確実に前に進んでいる、そんなこともあった。


生老病死に向き合う、人の育ちに関わる。総じて、人の命に関わる営みに、問題解決の思考「だけ」、を持ち込むと何かが抜け落ちる。


問題が特定できた。答えが見つかった。その状態が望ましいということを、あえて否定してみる。


ただただ命と出会う不思議さ、人が生きることのかけがえのなさを、感じながら、一緒にいることを味わう、そんな風に人と関わる。
そこから本当の人への共感が生まれる、と言われているし、僕もそう思う。

問題解決という枠組みを手放した先にある関わりのあり方。そこから見える世界に、もっと触れていたいなと思う。
そのために必要な力が、このnegative capabilityだ。

参考文献:

帚木蓬生 ネガティブ・ケイパビリティ 答えの出ない事態に耐える力 (朝日選書) 2017

Jacky Kilvington, Ali Wood 『Reflective Playwork For All Who Work with Children』Bloomsbury Academic 2018

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