出来る、わかる、だけを目指していていいのか?
ふと、他者からの指摘で、自分が出来ないこと、わかっていなかったこと、わかろうとしていないこと、があらわになる。
実はその自分を知っているのに、隠そうとしていた自分があらわになる。
その時に、感じる恥ずかしさ、イラ立ち。
停止や停滞、何かと比べて後退している自分、を受け入れることへの防衛反応が出てきてしまう。
なぜ防衛してしまうのだろうか。
何かが出来ている、知っている、わかっている。
そういう自分であることが、自分と周りの他者、世界との関係の安定、不安定、また自分の感じる安心、心地よさを左右しているから。
そう自分が感じてしまう関係性の中、社会の中に自分が生きている(生きてきた)からだろう、と考える。
自分自身が、わかる、知っている、出来ることを、なにがしかの権力を持つこと、人との関係において優位性を保つもの、自分にとってのある種の心地よさを生み出すものとして位置付けてきたことを、自分の恐れを通じて思い知らされる。
出来ることも、出来ないことも、わかっていることもわからないことも、一人一人違うことが当たり前で、そうした差異には本来良いも悪いもない。
しかし、人がともに生き、集団を作り、何かを目指して目的を設定し、歩もうとするとき、初めてその差異に価値判断が生まれる。
進歩や拡大を是とするこの時代、社会においては、出来る・わかるなどのポジティブなベクトルが「良い」とされがち。
でも、それだけが全てじゃない。
出来ないことや、わからないこと、出来なくなっていくことにも固有の価値があるはずだ。
まだうまく言葉にはできないけど、朧げにそんなことを考えている。
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