3.11_9年前の出来事を振り返る

3.11 9年前の出来事を振り返る 〜震災「半当事者」としての葛藤と希望〜

あれは思春期の終わりを告げる色だったのだろうか。それとも地元が破壊された悲しみの色だったのだろうか。2011年3月11日。限りなく黒に近い灰色の世界が始まった。

2011年3月11日、当時中学3年生だった私は卒業式を次の日に控えていた。午前2時46分、教室で掃除をしていた時間だったろうか。最初は弱い揺れの地震だった。しかし次第に揺れが大きくなり立ってはいられないほどだった。私は教室の床にしゃがみこんだ。避難訓練では机に下に潜り込むのが鉄則だが、これは訓練なんかじゃない。とにかくしゃがみこむだけで精一杯だった。

揺れだけではない。大地が揺れる音が恐怖心をさらに高めた。ピアノの鍵盤の一番左側の低音をスピーカーから爆音で鳴らしたような、あのひび割れた低い音。雪国の丈夫な二重窓も唸るほどの揺れだった。

死ぬかもしれない。そう思った体験は初めてだった。この後二階のベランダが折れるような形で折れ曲り、そのまま教室ごと崩れ落ちていく様が容易に想像できた。

大きな揺れがおさまった後生徒は皆体育館へ避難した。避難後も余震が続いた。体育館天井の照明が余震によってゆっくり左右に揺れているのを私はぼーっと眺めていた。いち早く情報を手に入れた先生が携帯で仙台港の様子を見せてくれた。画面を除くと、灰色の景色の中にポツンと佇むコンクリート壁。目を凝らしてみるとそれは漁協の設備か何かで本来道路になっている部分が海の一部となり建物の上部だけが顔を覗かせているという状態だった。嫌な汗が吹き出した。自分の地元もこうなっているのでは、という不安。でもそれほど酷くはないだろうと楽観視している自分もいた。

その後生徒は全員緊急下校させられた。海側に住んでいる生徒は一旦学校近くの村営体育館に避難した。私は幸い山側の人間だったので、無事帰宅することができた。学校こそ倒壊しなかったものの築何十年もしている実家はもしかしたら、という最悪の状況も考えらえた。しかし家までの道中倒壊れている家は見当たらず実家も無事であった。

実家は食器が全て割れたとか、何かが落ちてきたといったことはなかったようだ。自分の部屋もテレビの上にあったフィギアが一つ倒れている程度だった。

しばらくして父親が帰宅した。父は建設業者で働いており、たまたま海沿いの現場で仕事をしていた時に被災した。初めは走って逃げていたが、もう間に合わないと思った時通りかかった軽トラックに乗せられて命からがら逃げたしてきたらしい。父は他の海沿いの現場の人からの様々なことを聞いたらしく、「もう終わりだ」と諦めの声を口にしていた。

そうこうしているうちに日が沈み始めた。3月の東北はまだ寒い。夜になると毛布と布団があっても寒いくらいだ。村営の体育館に避難している人たちは夜寒くて寝られないだろう、と母と祖母が案じストーブを持っていくことに決めた。直接持っていくよりも村役場を通して届けてもらったほうが良いだろうと考え、家から1キロほど離れた村役場へストーブを届けにいった。私たちが到着すると、すでに同じようにストーブを持った人が数名列をなしていた。

今まで村民の繋がりなんて考えたことはなかったが、ピンチの時に助け合える人たちに囲まれて生きていたんだと実感した。家に帰り停電している中ろうそくをつけて夕食を食べた。幸い家には薪ストーブがありその熱で調理することができた。久しぶりに家族が寄せ集まって食卓を囲んだ。ラジオから流れる各地の被災状況に耳をすませながら時は流れていった。

自分にも何かできることはないだろうかとなんども考えた。しかし同じ被災地にいながら何も被害を受けていない私と家族を亡くしたりしている人たちの間に大きな見えない壁があるように感じていた。僕がもし神奈川とかに住んでいて外から被災地の様子を見たら純粋に助けに行こうとなったと思う。でも当時の私には家族を亡くした友達へ寄り添う言葉をかけられるだけの自信もなければ、この状況を一変させるための行動力もなかった。ただひたすらに無力であった。この当事者だけど当事者になりきれないという狭間にいる感覚は長く続くことになる。

ある日避難所の近くを車で通りかかった。大型トラックの荷台から救援物資を運ぶ人々の姿が見えた。その中に中学時代すごくワルだった先輩の姿があった。汗を流しながら必死に物資のバケツリレーをしている。すごく複雑な気持ちだった。悔しい、悲しい、無力だ・・。小中学校時代は比較的迷惑をかけずに生きてきたと思っていた。部活も一生懸命やって先生には認められる立場だった。一方先生に迷惑をたくさんかけただろう先輩は今人様のために汗水垂らして働いている。僕は?今何ができる?アイデアはたくさん浮かんだが、一つも行動に移すことはなかった。そしてタイムリミットが来てしまった。

私は中学卒業後、実家を離れ下宿生活をすることが決まっていた。3月の半ばにはもう実家を出て車で2時間半離れた高校の近くへ越すことになっていたのだ。結局被災した地元のために何も出来ずに地元にしばしのお別れをした。高校は入学式が1週間遅れたこととコンビニが夕方6時で閉店するくらいであとは震災前と変わらぬ暮らしが待っていた。電気もつくし温かいご飯も食べられる。下宿生活初日はテレビから流れるACのCMを見ながら下宿のおばちゃんが買ってくれたホカ弁のかつカレーを食べたことを鮮明に覚えている。

私は「震災」との向き合い方に苦労した。被災地出身であるが、被災はしていない。そして被災直後に被災地から物理的に遠ざかった。今でもどう向き合うべきか分からない。

当時の自分と違うのは、行動する勇気を持てること。あの時は被災地にいながら一歩引いて眺める傍観者でしかいられなかったが、今は半当事者として、できることがあるのではないかと考えている。

教員という職業柄、高校生と毎日のように接する機会がある。彼らは震災についてどれほど知っているだろうか。この一年間で自分は震災について生徒に語ったことはあっただろうか。僕は僕なりの方法で震災と向き合えば良いのだ、と思えたのは実は今これを書いている最中だ。正直にいうと、日常から震災や復興というキーワードは除外されていた。九年目を迎える今日を機に震災当日についてボケ始める前に書き残しておこうと思い立ってから早2時間。タイピングをしたり考えたりしながら僕は震災と向き合おうとしている。

なーんだ、お前はアパートのコタツで温かいコーヒーを飲みながらただ当時のことを書くだけで被災地の現場のために何か役に立つことをしないのか、という悪魔の囁きが聞こえる。それが出来たら一番いいなと思う。

僕は伝えることを通して震災と向き合うことが自分にできることだと思うのだ。

伝えることの大切さを知った出来事がある。大学一年生の時フィリピンに語学研修に行った時のこと。1ヶ月の留学のまとめとして最後の授業で30分間のプレゼンテーションをするという課題が出された。私は迷いなく「震災」をテーマにした。「津波が発生した時、皆さんなら家族と一緒に逃げますか?それとも家族を置いて一人で逃げますか?」私はフィリピン人の先生と各国からの留学生を前に問いを投げかけた。ほとんどの人は家族と逃げるの方に手を挙げた。そこで「津波てんでんこ」という言葉があることを紹介した。僕のジャパニーズ英語の説明に彼らは熱心に耳を傾けてくれた。自分の経験を「伝える」ということは意味のあることなんだと気づいた。

先生が100言ったことを1でも生徒は覚えていればいい方だと思っている。幸いなことに私が担当する英語は英語を使うのであれば教える内容は比較的自由がきく。震災をテーマにした単元を作ってもいいだろうし、英文で過去の震災に関する記事を読ませることもできる。伝えるチャンスはたくさんある。来年度どういうクラスを担当するかまだわからないが、どんな生徒であれ、僕の使命は変わらない。

いったん昼寝を挟んでから読み返してみると実に稚拙で読みづらい文章である。でもそれでいいや。自分の言葉で語ることが大事だから。

長文読んでいただきありがとうございました。

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