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『ZEROISM』13

第三部 カバーイラスト 藤沢奈緒

『LGBT』

◆2023年12月17日誤字修正。コンパクトカー→セダン◆


「ニュース速報です。日本人の一日の死亡者数が一年前の四千人から約四倍の一万六千人になった事を厚生労働省が発表しました。急激な死亡者数の増加は、気候変動による自然災害が増え、猛暑などでの死者数が増えた事が原因だと分析していますが、ネットでは‥」
報道アナウンサーは淡々と喋り、ニュースはまたワイドショーに戻った。

一年前。

人気脚本家の田原澄子は、テレビ局の会議室の机に積まれた署名を見て、
「わたしは書きたいんですが…。ヒロインを替えてまで?」
と口籠り、プロデューサーの日村慎二郎を見た。
大ヒットテレビドラマ『サイレント脳』の続編。署名はファンからの嘆願書だ。
「主演の奥原ゆう子さんは、持病のパニック障害が辛いそうだけど、これの続編ならやりたいと医師からOKをもらったそうで、他の役者さんたちも大丈夫。レギュラー、全員が参加できます」
「じゃあ、奥原さんにあて書きでいいわけですね」
「はい。ただ、新しいキャラクターを加えてほしくて」
「どんな?」
「LGBTの人、なんでもいいです」
「はあ?このドラマには入れられないですよ。時代が違います」
思わず苦笑してしまう。
心療内科が総合病院の片隅にあった平成中頃の医療ドラマ。
髪型やファッションを今風に見せるヘアメイクもウケていた。
外科や内科から軽蔑されている心療内科医師たちが、患者のアフターケアに奮闘する話で、ヒロインの心療内科医師役の奥原ゆう子は、彼女たちをバカにする外科医の男性医師たちとの対立があり、やがて、その中の外科医の一人と和解し、恋が芽生える最終回で終わった。
「そうですか。残念ですね。とりあえず、その話はなしでプロットを先にお願いできますか」
その日の打ち合わせはそれで終わり、田原澄子は自宅マンションで、プロットを作りながら、第一話の脚本も書いていた。
疲れてきた時に、スマートフォンが鳴動し、何も考えずに電話に出た。
「田原澄子先生ですか」
「はい。どなたでしょうか」
男の声。ハスキーな、中性的な音だった。
「ご主人の田原誠一郎さんはお元気ですか」
「?」
「別居してらっしゃる。だけど不仲ではありませんね。あなたが執筆するために集中したいから、あなたはマンションを借りた」
「どちら様ですか。切りますよ」
「切ったら、ご主人の命はありません」
「え?」
体が固まる。
深夜の一時。田原澄子は、もう一台のスマートフォンに手を伸ばした。
「警察に通報しても無駄です。あなたも高名な脚本家。存在しない組織がどこの国にもある事くらい、何かに書いたでしょう? あなたは想像で書いたのかも知れませんが、そんな架空の組織は我が国にもあります」
「とりあえず警察には連絡します。主人を守ってほしいので」
通話を切ろうとしたら、
「あなたの小さなプライドやこだわりをほんの少し止めてくれるだけで、誰も死なずにすむ」
と男は言った。
「誰も?」
「今日もどこかで人は死んでいます。病死かも知れないが、その病気は我々が与えたようなもの。我々が本気になれば、一日四千人死ぬこの国の死亡者を三倍以上に増やせる。あなたがプライドやこだわりを捨てなければ、です」
「わたしのそれはなんですか」
「テレビドラマ『サイレント脳』の続編にLGBTのキャラクターをレギュラーにする脚本を書いてくれれば、我々は何もしない。ご主人にも手を出さないし、家庭内にある食品に無駄な毒物も入れない」
「毒物?」
「どんな加工食品にも人体に悪影響がない毒物が含まれている。それを影響がある量に増やす。一年か二年後から、老人や子供から癌や高血圧、血液の病気が増えてくる。あなたのせいで」
「そんなことは不可能ですよ。お断りします」
田原澄子はそう言い切り、通話を止めた。
すぐに夫の誠一郎と警視庁の知人にメールを入れた。
『深夜で失礼だったかな』
しかし、警視庁の知人はすぐに電話をしてきた。
「森長です。その話は本当ですか」
深夜なのに、彼は甲高い声で訊いてきた。
「はい。主人が心配なんですが、でも、からかわれてるだけかもしれないから、部署は違うと思いますが、いったん森長さんに相談しようと…」
「いや、ご主人の家には私の部下を派遣します。警察にはまだ連絡しないで下さい」
「え?は、はい。なぜですか。そもそも森長さんが警察……」
「その脅迫は本物です。しかも公安の案件です。私が手を回します」
「テ、テロリスト?」
「似たようなものです。ご主人の警護は、テロ対策に長けた私の部下を派遣します。田原先生には私とこの案件に関わった事がある若いのをすぐに付けます」
田原澄子は通話を切り、書きかけのプロットにゲイとレズのキャラクターを混ぜるアイデアを捻り出そうとして、頭を抱えた。
『森長さん、大げさな人だなあ……。こんなのよくある話。脅迫はないけど‥‥』
中堅、若手の脚本家たちは、皆、書かされていた。
LGBTだけではない。
男女平等、対等の話や動物と人間の共存など、それが全くテーマにない物語に無理やり押し込まれていた。
田原澄子は大物脚本家。
奥原ゆう子にあて書きできるほどの。
タワーマンションの窓から路上を見たら、一台のセダンが停車し、その時にスマートフォンが鳴った。
「警視庁、公安部の横川と申します。マンションのエントランスを見ました。異常はないので、安心してお休み下さい」
田原は礼を言い、ベッドに向かった。

同日、午前二時。
外川数史は、買ったばかりのホンダシビックを世田谷にある住宅街の路上に停めた。
「変態係長には趣味がないと思ってたら、車を乗り換えるのが趣味なのね。しかも国産車ばかり。わたしたちも同じ車の色違いにされた」
助手席の杉浦南美が笑った。
真面目な夫、杉浦竜則の女性のファッションの興味が変わり、以前のスリムジーンズから膝上のフレアースカートに、まるで衣替えだった。
季節は初秋。
まだ残暑が残る夜。南美は、ストッキングも穿いてない。靴だけは動きやすいスニーカーにしていた。
「目立つ外車に乗る外事警察官はいない。スカートで警護にくる女の警察官も」
外川は、田原誠一郎の邸宅を神妙な目で見回している。
「元気ないね。純菜ちゃんに替わりましょうか」
「眠いだけ。純菜は寝てたし、一般人」
「わたしたちも一般人……かも!」
「そんなわけないよ。だったら、銃刀不法所持とかで逮捕されてる」
「じゃあ、表参道事件から、ずっと長期有給休暇?」
「ん? あれ、給料ないな」
「でしょー。わたしたちカフェのバイトと店員だよ」
「こんなの持ってて?」
外川がアウターの裾を持ち上げたら、腰のベルトにグロック26が挟まれていた。
「こわーい。プロの殺し屋が好きな銃」
「こっちが怖いよ。こんな小銃ひとつじゃ、君の色気にもやられてしまう」
「外川さん、後ろからくる白の高級セダン」
外川がサイドミラーを見た。
「あれは大丈夫だ。君にはダメだが」
「?」
外川のホンダのすぐ後ろに停車したセダンから男が降りてきて、外川の車に近寄ってきた。
深夜の住宅街、暗くて見えない。
「外川さん、やや飲酒運転なんですが…」
「藤原!」
南美が大きな声を出したら、外川が彼女の太ももを叩いた。
「変態!そこを叩くか。あっちは元ゼロイズムのゲイ。なんなの、この息苦しい張り込みは!」
「張り込みじゃない。警護。おい、タクシーで来い。免許は取り消しだ」
「えー」
「どっちもうるさい。深夜に起きてるのはおまえしかいないから呼んだが、飲んでたのは聞いてない。裏を見張ってほしい。この家の主人を狙ってるのはゼロイズムだ」
藤原は目を丸め、
「ゼロイズム? ……の誰ですか」
と言った。
「分からない。森長さんからの情報だ」
「森長さん、信用……」
藤原秀一がそう言いかけた時、南美が「きゃっ」と小さな悲鳴を上げた。外川が、太ももに触ったのだ。
「急になに? 藤原の前でわたしを口説くの?」
南美の言葉を無視した外川は車から降りて、 
「森長さんが暴走してることは話すな。彼女も知らないわけじゃないが、リアルに知ってるのはおまえと俺だけ。純菜は知らない」
と藤原に言い、お尻を叩いた。すると藤原も、女性みたいな声を出した。
「どこを叩けばいいんだ。あっちもこっちも」
ため息を吐き、藤原を田原邸の裏に行かせて、また車に戻る。
南美が瞼を半分閉じて、外川を睨んでいた。
「ブスになったな。杉浦が泣くぞ」
「杉浦には報告しますよ。だけど彼は、太ももくらいで怒るな、とか言いながら、純菜ちゃんと対戦ゲームをしてるでしょう」
「良かったじゃないか。女の子とゲームが出来るようになって」
「まあね。真面目で、つまーんない男が、寝取りも許すと思うし」
「え?誰に寝取られたんだ?」
外川が目を丸める。
「あなたです。たった今」
「太ももを触っただけで?」
「はい。わたし的には」
「それは割に合わないな」
「ではホテルへ」
「またいつか」
「つまんなーい。あっちもこっちも」
南美が子供みたいな声を出したと思ったら、急に声柄を変え、
「森長さんがどうかしたの?」
と言った。

当日、午前九時。カフェ『菜の花』

いつものように、中二階の四人席に、外川、隣が南美。外川の正面が杉浦竜則、隣が純菜。誰かがジョークを口にすると、女子二人が笑い、隣の男に触れるスキンシップが激しい。
厨房でモーニングセットを四人分、作っている棚橋弥生が、夫の棚橋拓郎に、
「あの並びは夫婦が逆なんだけど‥」
と話しかけた。
「分からん。日本の諜報員たちが考えてることは。捜査に別々で行く時も、夫婦が逆だし」
焼き上がったトーストをお皿に置いて、
「それより、今日は朝からだよ。誰からお金をもらっても売り上げにならない日だ。ランチタイムまでにやめてほしい」
と言い、ため息をついた。
純菜は娘。外川は娘婿で棚橋家に同居。南美は『菜の花』のバイト。杉浦は南美の夫だ。
「田原誠一郎さんはいいの?」
純菜が、夫の外川を見て子猫みたいに首を傾げた。
「桁元に見張らせてる」
「うわ!強そう。じゃあ、安心だ」
純菜が声を上げたら、「頑張ってるみたいよ、彼」と南美が言い、目を細めた。
「二人とも朝からかわいい。この子たちは遊びに行かせて男だけでやるか」
「小物臭さがするからな。北海道で熊の方が強敵で、ゼロイズムはちっちゃい人間だった。うんざりだ。南美はスパにでも行けば?」
「どこのスパ?純菜ちゃんと二人で五万円」
南美が夫の杉浦に右手を出した。 
「五万は無理だから菜の花にいてもらおう。さて、この男が、田原澄子にLGBTの人を脚本に加えるように頼んだプロデューサーの日村慎二郎、五十九歳」
外川が、写真をテーブルに出した。
「業界のおじさんって感じ」
南美が写真を見て言った。
「Qは?」
純菜がそう口にすると、
「QRSTU‥‥どんどん増えるから割愛」
杉浦が苦笑いをした。
「たまにテレビドラマを見たら、必ずLGBTの誰かが端役にいるし、よくあることなんじゃないか。脅迫内容も無理がある。不可能じゃないが、難しい。首謀者が口だけ番長で小さい人間の気がする」
また、「小さい」と言う杉浦。
「そういうのどうでもいい人だったのに。でもいいよ。はっきり言う男性の方が楽しい」
南美が夫に手を伸ばし、「五万じゃないよ」と笑い、杉浦の膝を触った。
弥生と拓郎がテーブルの上にトーストとコーヒー。ミニサラダを並べていく。
「このマーガリンがべったりついたトーストを毎日、五十斤くらい食べたら病気になるかもな」
外川がつまらなそうに言ったら、弥生が外川の頭をパシッと叩き、
「バターです。純菜、時々、暴言を吐くあんたの旦那。ちゃんと教育してね!」
と怒り、厨房に戻った。
「んー、この砂糖が入ってない、ガムシロップは?」
まるで夫を叱る気がない純菜が小声で言うと、外川が、
「毎日、百回くらいコーヒーにいれたら、癌になるかも」と言い、南美が、
「その前にカフェイン中毒」
呼応する。三人がモーニングセットを見て、食べずにケラケラ笑ってる。杉浦が恐る恐る厨房の弥生を見た。
「そこの、杉浦さんを除く三人!今日からチャージ料金ね!南美ちゃんのバイト代から引くから!」
弥生がそう叫んだ。
「なんで俺だけ悪くないのに、南美のバイト代から引かれるんだ」
「さあ、お母さん、天然だから」
純菜が苦笑いをした。
「森長さんは、脅迫者をゼロイズムだと確信している。くだらんことで、殺害予告をする手口はゼロイズムだが、でもその方法がな‥‥」
「あなたも言って」 
南美が夫の杉浦を見て笑みを零した。
「俺も弥生さんの敵にするのか」
「そう。わたしたちは一蓮托生」
「‥‥このサラダに添えてあるマヨネーズの会社でも調べるか」
小さい声で口にしたら、厨房の弥生に睨まれた。
「まずは、あちらのモーニングを見よう。高級ホテルでパンには発酵バターだ」
外川がノートPCのモニター画面を開いた。
「あれ?このホテル」
南美が目を丸めた。
「そう、富張‥‥」
「わたしと外川さんが泊まった‥‥」
「え?」
杉浦と純菜が一緒に声を上げた。
「泊まってない。なんでエッチネタばかりなんだ、おまえの妻は」
「すまん。どうしたらいいのか」
「朝から欲求不満の妻を、おまえがなんとかしてくれ。南美さんと二人で富張巧をこらしめたホテルのロビーラウンジだ。角の席にいるのが日村。ホテルの副支配人に捜査協力を頼んだ隠しカメラだ」
「あの副支配人ね。怖いなあ、外事は。誰でも盗撮しちゃう」
南美が呆れた顔で言った。
「日村の後ろはリバーエリアで人がいない。あの場所にウエイトレスが誘導した。もうすぐ、田原澄子さんが来るが、リバーエリアから狙う事は出来ない。護衛は一課の横川さん。田原さんにはLGBTのキャラクターを入れないと殺す、と殺害予告があった事を日村に話すように、横川さんが言ってある。純菜、俺たちが今、何をするのか分かるか」
「日村慎二郎の表情を観察」
「そうだ。簡単に分かる。殺害予告犯の仲間か、無関係か」
田原澄子が着席し、コーヒーを注文した。
「モーニングじゃないのか。見たかった」 
純菜が自分の家のカフェと比べたいのか、残念そうに言う。
「スティックの砂糖。ホットだからか。お母さん、高級ホテルはスティックの砂糖。たぶん、オーガニック!」
厨房の弥生に言うと、
「ち、娘も腹立つな」
弥生が舌打ちした。
田原澄子が日村慎二郎に殺害予告の話をする。
外川が盗撮カメラのマイクのボリュームをPCで上げた。
『そんなことが? や、やめましょう。そんなに重要な話じゃない。他社のドラマと歩調を合わせるよう社長から言われただけです』
などと言っていた。
「純菜、どう思う?」
「嘘は吐いてない」
「俺もそう思う。杉浦夫妻は?」
「だから、よくある話だって言った」
「そうね。ハリウッド映画なら当たり前だし」
南美が頷いた。
「じゃあ、『サイレント脳』の続編が決定したのを脅迫者はなぜ知ってるんだ。ネットの『サイレント脳』の公式アカウントにも、田原澄子さんのSNSにも、その情報は出してないぞ」
「まあ、そうだけど、わたしたちがやる案件?」
南美が真顔で言う。
「他に誰がやるんだ。杉浦が無職になってしまう」
「俺はたぶん、警視庁に在籍したまま。成田空港で拳銃を使ったが、何も言われてない」
「長期有給休暇扱いなら給料、未払いよ」
「森長さんから、俺がもらってる捜査費用を杉浦に渡すように言われてるが、けっこうな金額を毎月。あれが杉浦の給料なんじゃないかな」
外川が言う。
「あー、余ったお金を生活費にしていいって森長さんから言われた」
南美がそう話した時、純菜が声を上げた。
「数史さん、パソコン見て!」
思わずPC画面に顔を寄せる。杉浦と南美も見た。
田原澄子がコーヒーカップを落とし、テーブルの上に顔を伏せていた。

杉浦の警察官専用の携帯が鳴った。
「おい!杉浦、本当に藤原がいた組織の仲間の仕業か。だったら、一課の仕事じゃないし、俺にはよく分からん。すぐに来てくれ!」
横川から電話を受けた杉浦が、リーダーの外川数史を見た。
「純菜。鑑識がくる前にあのコーヒーを一部、拝借してこい。ただし、田原澄子が死んでいたら触るな。吐いた程度なら、スプーンですくってくるんだ。その判断は杉浦に任せる。弥生さん、純菜に水漏れしない容器を!ガラス製の!」
「は、はい!」
急にバタバタしだした娘たちを見た棚橋夫妻が慌てている。
「杉浦、純菜と一緒に横川さんと合流してくれ。南美さんは、俺と田原澄子さんの旦那の家だ」
「分かった」
杉浦と南美が頷き、菜の花の駐車場から、二台のホンダ車が出て行った。
「きょ、今日は、十時開店にしてよかった」
娘が乗った車を目で追いながら、棚橋拓郎が言った。
「うちの店。菜の花って名前でいいの?」
弥生が呆然としたまま、夫の手を握った。

ホテルのエントランスに強引に車を停め、
「警察だ。この車を頼む」
ベルボーイにキーを渡した杉浦と純菜がロビーラウンジに走った。
すでに所轄の警察官がきている。
「杉浦、こっちだ」
ラウンジ内にいる横川が、手招きした。
警察官たちが、
「す、杉浦さんだ」
と口々に言う。目を丸めてる警察官もいた。中には、「本物だ。本当に生きてたんだ」と言い、涙を浮かばせた者もいた。
警察官の一人が純菜を止めようとしたら、
「外川数史警部補の妻、純菜さんだ。捜査協力を依頼している」
と杉浦が言う。若い警察官はびっくりして、純菜を通した。
「横川さん、田原澄子さんの溶体は?」
ソファ席で安静にしている田原澄子。横に棒立ちになっている日村がいた。
「嘔吐だけだが、脅迫があったからパニックになっている」
「純菜ちゃん、液体に触らないように頼む」
「はい」
純菜が隣席にある未使用のスプーンを素早く見つけ、それを使い、田原澄子が飲んでいたコーヒーをガラス製の小さな容器にいれた。
「彼女、あの席、この席、分かってるな。どこかから見てたのか。田原澄子が倒れてから、ラウンジは閉鎖。何もいじってない。あのスプーンは店から出た客が使わなかったやつ。彼女、まっすぐその席に行った」
「はい。すみません。どこの部署がやる案件か分からないのに、いつも手伝わせて」
先輩の横川に敬語を使う杉浦。ラウンジ内を見回して、眉を顰めた。
「なんだ?」
「田原澄子さんのスマホの通話記録は見れますか」
「実は見せてもらった。ソファに運ぶ時に、部署が違う森長さんと連絡が取りたいと嘘を言って。おまえたちに関わる人間、みんな怪しいから念のためだ」
「日村以外に誰かとは?」
「森長さんとメール。内容は俺の紹介。俺と通話三回。日村と一回。以上」
「さすがです」
「褒めても何も出ない。あの日村って男が毒物を入れた様子はなかった。所轄の警察官がホテルの過失がないかを聞いている」
杉浦が頷き、田原澄子に近寄った。
「警視庁、公安一課の杉浦と言います。森長さんから話は聞いてます。大丈夫ですか」
ソファで寝ている田原澄子は何も言わずに頷いた。救急車が来て、いったん、病院に行く事になった。
「あなたは帰っていいです。ただ、田原澄子に言われた話は口外しないで下さい」
日村に言うと、彼は、「分かりました」と言い、青白い顔でロビーラウンジから出た。
「おい、おい、杉浦。田原澄子の警護はいいのか。まさか俺が行く?」
「たぶん、警護は必要ありません。横川さん、お疲れ様でした」
「?」
横川がきょとんとした顔をして、杉浦を見ていた。純菜が田原澄子が座っていた席のテーブルをじっと見ている。
純菜の後ろにきた杉浦が、
「高級ホテルは、スティックの砂糖。それもオーガニックかな」
と笑った。
「スティックの砂糖が置いてない。どこの席にも。注文した飲み物に合わせて、砂糖やミルクを持ってくるんだ」
純菜が店員がいる会計の前に走った。女性店員に話を聞き、すぐに戻ってきた。
「砂糖はスティックじゃなくて、瓶に入った黒糖か特上白砂糖だって」
杉浦に報告する。
「マイ砂糖だな。砂糖が入ったコーヒーに、どんな成分が混ざってるかは外川に調べてもらおう」
「あの脚本家の女、自作自演?」
純菜が走り出した救急車を見ながら言った。

救急車の中で落ち着いてきた田原澄子は、救急隊員に、
「主人に電話してもいいですか」
と言った。救急隊員が頷く。
電話に出た夫の田原誠一郎に、
「ホテルのカフェで日村さんと打ち合わせ中に、急に吐き気がして倒れた。今、救急車で、あ、今、東高女子医大に到着した」
と告げた。
「大丈夫か」
「怖いから来て」
「分かった。警察官から何か訊かれたか」
「なにも……」
「なにも?リーダーみたいな警察官はいた?」
「え? 警護してくれた刑事さん?」
「その刑事の名前は?」
「?横川だったかな。後からきた偉い感じの刑事さんが、公安の人で杉浦……」
「杉浦? ああ、都合がいいな」
「?」
「なんでもない。知り合いの警察官かも知れない。お礼を言わないといけないと思ってね」
田原誠一郎との通話を切った妻の澄子は、解せない顔つきのまま処置室に運ばれた。

杉浦から報告を受けた外川が車の中で、
「退屈になってきた。帰るか」
と南美に言った。
「でも、脅迫電話は本当にあったんでしょ」
「一課で発信元を調べたら、プリペイド式の携帯だった。君は俺がやる気があるとエッチな話ばかりして誘惑して、俺が休みたくなると仕事をしろって方針か」
「そうです」
きっぱり言い、上目遣いで外川を見た。そして、
「後ろにまた藤原が来てるし」
不機嫌な顔でサイドミラーを見て言う。
「藤原?呼んでない」
「深夜のと同じセダンですよ。見学?」
「南美!伏せろ!」
突然、銃弾が車のリアガラスを突き抜けて、南美の助手席のシートに食い込んだ。
「な、なんで藤原がわたしたちを撃つの?」
「藤原じゃない!同じ車のレンタカーだ!」
「きゃー、どんな拳銃よ!五連発!」
リアガラスは崩壊。弾の一発はフロントガラスにも穴を開けている。
「いったい、誰?」
「今から見てくる。そのまま伏せてろ」
外川が何食わぬ顔で車の外に出た。手にグロック26を持っている。
歩を進めながら、セダンにどんどん撃ち込んでいく。外川の銃撃を車の中で必死に避けながら、敵は二発、外川に向けて撃ったが外川が避ける事もなく、銃弾は一戸建ての家を囲む塀に当たっただけだった。
敵の弾が切れたところで、外川が敵の車に到着した。
南美が、「外川さんの射撃、初めて見た。めちゃくちゃじゃん。あれがしたくてあの銃か」と言い、驚いていた。
「弾を数えながら撃て」
外川が男のこめかみにグロック26の銃口を押し付けた。
富張巧は、まるで悪魔を見るような目で外川数史を睨んだ。
「おまえたち夫婦を殺すまで、俺は何度でも地獄から這い上がる。おまえの自称、絶世の美人妻は絶対に許さない」
「彼女ばかりを狙っていたから、おまえかおまえの仲間だと分かった。パトカーがきた。おやすみ」
外川がグロック26のグリップで富張の頭を殴ると彼は意識を失った。
「富張だ。俺たちを夫婦だと思ってて、俺よりも君が嫌いだそうだ」
車に戻った外川がそう教えた。
「夫婦なら一回はしないとだめね」
「ほら、俺が仕事をするとセックスの話だ」
「それは変態係長がかっこいいから」
と言いながら、なぜかグロック26を触り、「これ、初めて見るの。いじっていい?男性のみたいに!」と、ふざけた口調で言う。外川は仕方なく、グロック26を南美に渡した。
「拳銃が男のに見えるんじゃ、重症だぞ」
「なんとでも言え。これ、わたしにちょうだい。使いやすそう」
「田原誠一郎が出てきた」
外川が言うと、南美が彼をチラリと見た。
その時、駆け付けた警察官たちが外川の車を囲んだ。皆、銃を向けている。
外川がうんざりした顔をしていたら、警察官の一人が、
「と、外川数史警部補?」
と口にした。
「そうだ。外事の森長英治警部経由、参事官から頼まれてる仕事だ。ターゲットが見えなかったぞ」 
「大変、失礼しました!」
一斉に外川の車から離れる警察官たち。
「南美、ターゲットで間違いないな。俺は見えなかった」
「はい。この騒ぎで動揺してない上に笑みを浮かばせた。わたしたちが生きてるのを見て、瞬きを一回してから、わたしから目を逸らした。わたしたちがここにいるのを知ってるのは、森長さん、藤原、田原澄子、澄子の夫のあいつだけ。森長さんは裏で何かしてるけど純菜ちゃんを溺愛。わたしたちも好き。藤原はわたしたちに負い目がある情報屋で裏切らない。もちろん桁元さんも。澄子は砂糖に何かを入れられた被害者ぽい。藤原の車の種類を夫のあいつから教えられていたとしても、富張にそれを伝えられるのは救急車の中か今。つまり富張が藤原と同じ車を用意するが早すぎる。藤原の車を深夜に見て、あらかじめ富張に教えられるのは田原誠一郎。わたしたちが護衛する人間じゃない」
「南美、グロックを返せ」
「嫌です。あいつがゼロイズムなら撃つ。富張を知ってるなら、ほぼ、ゼロイズムの仲間で確定。わたしを殺そうとした男を呼んだなら殺人ほう助みたいなもの。わたしの罪は悪くて実刑一年か二年」
南美が助手席側の窓から、道を歩く田原誠一郎に向けて、グロック26の銃口を向けた。弾は残っている。
「好きだよ、南美」
「え?」
南美がトリガーを引きかけた瞬間の言葉。一瞬、トリガーを引く指が緩んだ時に、外川がグロックを奪い取った。
南美が外川を睨みつけた。体ごと引っ張られた南美は外川の膝の上から、彼を見ている。
「今の告白はなに? 銃を奪うための嘘?それとも本心? 本心なら少し許す」
「両方だ。南美、復讐はつまらない人生になる。しかも奴は小物。大物が現れるまでは俺と杉浦のかわいい女でいてほしい」
「大物が現れたら、わたしに殺らせてくれるなら、ずっと女でいてもいい」
「約束する。過剰防衛で執行猶予付き、くらいに俺がアシストする」
「それは最高の約束‥」
南美はそう言い終わらないうちに、外川の首に両手を絡め、口づけをした。不意をつかれた外川が驚いている。すぐに南美を助手席に押し戻した。
「杉浦には了解を得ています。外川さんとケンカになったら色気を使うことを」
「純菜にも言ってある。杉浦が鬱になったら、下着でも見せてやれって」
「わたしたちは離れない。奪い合わない。嫉妬もしない。あの絶望の二年間で、あなたたち男はバリ島で、わたしたち女は東京でそれを決めた。‥抱いて。その銃を裸のわたしに突きつけて、復讐は俺たち男に任せろ、おまえは女でいろって叱りながら抱いて。わたしの怒りはセックスでしか収まらない。セックスでわたしは女になれる。それが外川さんの理想なら合理的よ。あなたはずっとわたしにそう言ってきた。上司のくせに、女でいろって。女にしてよ」
外川は少し困った顔をしたが、何も言わずにスマートフォンを手にした。
「純菜、モンドクラッセ東京に俺のヴィトンを持ってきてくれ。でかい? だから、ヴィトンの箱の中にあるヴィトンの鞄だ。南美さんが富張に撃たれて、情緒不安定で手が付けられないからケアする」
「撃たれた?ケガは?」
「心だ」
「あ、はい。わかりました」
通話を聞いて茫然している南美を無視し、近くにいた警察官に愛車のレッカー移動を頼み、タクシーを呼んだ。
「俺の介護をしていた君と寝ても、純菜は怒らない。純菜はそのつもりで介護を弥生さんじゃなくて、君に頼んだ」
「わ、わたし、やっぱり‥‥」
「少し休もう。君はまだ治ってないと思う」
夫の杉浦が行方不明の時、その夫のせいで生死を彷徨っていた外川を介護していた南美。
極度の鬱状態で、弱っていた外川の下半身を洗いながら稚気を見せていた。
『菜の花』でバイトを始めてからは、小説の一文を呟きながら、森長のホットコーヒーに氷を入れていた。病んでいたのだ。
杉浦が帰ってきても、夫婦の夜はぎこちない事は、外川も純菜も知っていた。
子供もあきらめた南美に、
ーーこれ以上、「ダメ」ばかり言えるのか。
外川と純菜は、夜な夜なそんな話をしていた。
「コンビを組むのはあなたと南美さん。南美さんが無茶をしたら、抱きしめて止めて」

ーーありがとう、純菜。ちょっと南美さんを愛してくる。俺の命の恩人だ。

「ゼロイズムに復讐する事しか頭にない。だから杉浦はわたしを叱る。それは当たり前だから、彼は大好き。だけど、表参道の事を思い出すと杉浦とも上手くできない。また奴らに復讐したくなる」
南美は、外川の胸の中でずっと泣いていた。
「外川さん、復讐してもいいんだよね」
「最後は君がやれ」
「嬉しい。それが終わったら、わたしは消えるか、……ただの女になるね」
ただの女という言葉を聞いた外川は、南美に気づかれないように、目から零れそうになった涙を拭った。

第三部『ZEROISM13』了。









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普段は自己啓発をやっていますが、小説、写真が死ぬほど好きです。サポートしていただいたら、どんどん撮影でき、書けます。また、イラストなどの絵も好きなので、表紙に使うクリエイターの方も積極的にサポートしていきます。よろしくお願いします。