お寺で育った幼少期、異国での日々、3.11での被災、ライターで食いつないだ東京でのじり貧生活...こわがりだった私の半生の中で、唯一ゆずれなかったもの

子供のころの夢は、作家になること。

それは、自分のイメージとして、ずっとあったこと。

だけど、どうやって作品を書いていいのか、

どうやって作家になったらいいのか、

まるでわからなかった。

見ためもふつう、勉強もふつう、運動もふつう、

平凡を絵に描いたような子供だった私の、

唯一の特徴といえば“こわがり”だということだった。

そんな私が生まれそだった場所はお寺。

母の実家もお寺で、寺同士が結婚した純寺の子。

当然のように家の前は墓場というシチュエーション。

日が暮れてから、ずらりと並ぶ人気のない墓場

それはもうスリリングで、

子供のころは、いいえ、高校生のころも、

暗くなってからの帰宅はすべてダッシュだった。

怖いのは何も墓場だけの話ではなく、

お寺と住処が融合したような

家の中もまた、なかなかのスリルで。

寝室のある2Fに行く際には、

本堂につながる廊下を通らねばならず、

その本堂にむかって鏡が置いてあり、

鏡と本堂が向かい合うその通路は、

“あの世とこの世の通り道になっている”

と、今でも私は信じているのだが、

とにかくただならぬ雰囲気がただよっていて

家の者はみな、寝るのが早く

うっかりTVに夢中になって最後まで起きていてしまうと、

電気を消しながらそのコーナーを回らねばならなくなり、

その恐ろしさといったら、お化け屋敷どころの話ではなく、

2Fにあがるための決心をするために、

2時間もかかったときもあるほどだった。

そして怖いのは家の中だけではなかった。

お寺という場所に、いろんな人がきた。

ある日留守番を頼まれた私は、

携帯電話で友達と長電話しようと2Fにあがった。

すると、そこに。

まったく見たことも、会ったこともない、

知らないおじさんが立っていた。

「え!!!!」

って、声を出す間もなくたたずむ私の前で

おじさんは

「うわぁぁーーーー!!」

と、叫びながら両手に靴を、階段を駆けおりる。

いやいや、叫びたいのは私の方だから!

っと、後をおいかけたものの、

おじさんのスピードに負けて、

見失ってしまった。

空き巣だった。

また別のある日。

深夜11時ころ。シャワーをあびていると、

扉の外で、なにかごそごそと音がする。

そんな時間たいてい家族は寝ているので

なんだろう?っと、嫌な感じがしたのだが。

シャワーから出てみると、母親が起きていて

「大丈夫だった?」と、聞かれた。

「大丈夫だけど、大丈夫ってなに?」

聞けばたった今、

チャイムが鳴って、男性の声で

「今、人を殺してきました」

という申告があったそうな。

話をきこうと、おりてみると、誰もいなかったという結末で、

玄関付近にあるお風呂場でシャワーを浴びていた私は大丈夫だったか?

という次第だった。

……。一応、大丈夫だった。

「お金をください」

「かくまってください」

「死にたいんです」

etc……

実にバラエティにとんだ人々の様々な一面。

子供ながらに、大人の深刻さコミカルさ、

ドラマチックな一面が、日々かいま見れるお寺生活。

そんな、サバイバルな毎日をおくっていた子供のころ、

唯一リラックスできる時間が本を読むことだった。

特別な読書家というわけではなかったが、

好きな本を読んでいるときは、その世界に没頭できた。

日々、ぎょっとするようなハプニングが事欠かない

この家での至福の時間だった。

こんな至福の時、世界を作れる人、

作家というのは私の中のヒーローであり、

いつしか憧れるようになっていった。

22歳、夏。私は漫画の編集者になっていた。

就職したばかりで、右も左もわからず、

がむしゃらに漫画家さんの原稿を受け取りにいっていた。

ある日、電車にゆられているとインスピレーションがおりてきた。

横一列に並んで電車の椅子に座っている自分を見て。

「これってトウモロコシみたいだな」

そんなイメージが頭に飛び込んできた。

トウモロコシの気持ち、お話が浮かんでくる。

これって作品にしたら面白いんじゃないだろうか?

その夜。23時。

受け取ったイメージを

原稿にしようとパソコンにむかった。

たしか、トウモロコシの話だったよね。

自分に書けるのかな? ドキドキしながら

ロクにさわったことのないパソコンを開いた。

ゆっくりとパソコンのキーボードを押すと、

自分でも予想しなかった話が出てきた。

出だしはこうだった。

『ある晴れた、日。遅めの昼食を終えて交番に戻ると、一人の男が大暴れしていた。』

あれ? たしかトウモロコシの話じゃなかったっけ?

だけど出てきた話はまったく違う話だった。

指はすらすらと嘘みたいに原稿を書いた。

自分でも予想のつかない展開。

次の一行がどんな文章になるかわからない。

おもしろいんだか、おもしろくないんだか。

疑問を抱く暇もなく書き出してみた。

午前4時。

最初の作品ができた。

簡単に原稿が書けて自分でもおどろき興奮した。

私って天才なんじゃないだろうか?

それは警察官の話だった。

トウモロコシとはまったく関係のない。外国が舞台の話。

この時点で一度も外国に行ったことがなかったので、

外国の話が出てくることに不思議な感じがした。

さっそく、

友達の編集者に作品を見せた。

編集者はじっと原稿を読んだ後ひと呼吸。

私の顔を見るなり大笑いした。

「外国に自動販売機なんて、ねーよ」

そうだったんだ!

私はショックで言葉を失った。

知らなかった! 自動販売機がない!

こんなに夢中で書いたのに。

天才かと思ったけどそうじゃなかった。

はじめて出来た「書く」という作業。

私はこれまでの経験がやっと表現できた!

っと、思った。興奮してうれしかった。

自分の経験が報われた!っと思った。

けど、そうじゃなかった。

外国に行ったことがないのに

外国の話を書いた、ただのバカだった。

自分にはもう何もない。からっぽだ。

小さいころからの夢はあっけなくぺしゃんこになった。

それから書くってことをしなくなった。

トウモロコシのインスピレーションは封印した。

24歳。

私は、編集者をやめて雑誌のライターになっていた。

取材にインタビューにテープおこし。

はじめて経験することばかりで、何もかも新鮮。

とても楽しかった。仕事はどんどん増えて忙しくなっていった。

徹夜で原稿を書いて、寝ないで撮影にいくことも増えた。

忙しくなればなるほど体は疲れていった。

流行を追って伝える日々。

それはまるで回っている洗濯機に

必死でしがみついているような感覚。

最初は楽しかった仕事も、忙しさのあまり

だんだん疲れがたまってきていた。

こころの片隅で、これが私のしたいことだっけ?

そんな疑問が頭をかすめはじめた。

そうじゃないような気がする。

でも、それに気がつきたくない。

作家として作品が書けなくなった今、せめて、

“ライターとして、書く仕事でお金を稼いでいる”

という事実が自分を支えていた。

ライターをはじめて4年。

忙しい日々を送ることに限界がきていた。

今思えば忙しいことではなく、

本当は書きたいことがあるのに違うものを書いている、

という現実に限界がきていた。

しばらく休むか、旅に出るか、

なんかしらの切り替えをしたかった。

そんな時。取材で占い師さんに

インタビューする機会があった。

私は、おもいきって自分のことを聞いてみた。

私。

「旅に出ようかとおもってまして」

占い師さん。

「あなた、ロンドンよ! しかも、旅じゃなくて、住むのよ」

え!! ロンドンって。

行ってみたこともなければ、行こうと思ってもみなかった場所。

住むって、何? 外国に住むなんて、思ってもみなかった話。

急にそんなことを言われてしまって驚いたけど、

私はどこかで、ワクワクしていた。

こうやってワクワクするのはいつ以来だろう。

それは思い出せないくらい、ひさしぶりのことだった。

それから、ロンドン関係の本が目につくようになった。

ロンドンの夢までみるようになった。

そしてある日、

友人づてに、ロンドンのフラット(アパート)に

あまっている部屋があるから住まないか? 

と、オファーがあった。

これはもう行くしかない。

私は腹をくくった。

「ライターをやめて、ロンドンに行きます」

お世話になった人々に報告した。

溜め込んだ資料、雑誌、名刺、

ライターで得たものすべてを捨てた。

当時つきあっていた彼氏とも別れた。

長かった髪の毛も切った。

何も持たずに、旅立った。

とても、爽快だった。

ヒースロー空港におりると、そこは外国人ばかりだった。

というか、この場合、私が外国人になるのか。

朝、7時。ロンドン直行の急行電車にのって、

パディントンという駅におりた。

葉っぱの一枚一枚や、空気、石造りの建物、

人、すべてが、日本と違っていた。

誰も、自分のことを知っている人がいない国。

そう思うとすべてのしがらみから

解放されたような気持ちになった。

はじめておりたったロンドンは、

シナモンの香りがした。

英語はまったくわからなかった。

実際に外国人にむかって、英語を話したこともなかった。

目の前に、芝生が広がる平たい公園を見つけた。

ベンチに腰掛けていると、

ジョギング中のカップルが近づいてきた。

女性は60代くらい。短パンに大きなつばの帽子。

男性は20代くらい。金髪のくるくるヘアー。

不思議な組み合わせだ。

女性が私にたずねた。

「Is this hat hyde my face?」

帽子に顔が隠れてるか?ってことかな?

うん。っと、うなずくと、

女性は、満足そうにジョギングしていった。

なんだかロンドンってすごいなー。

日本ではそんな質問されたことなかったー。

ここでのルール、今までとはまったく違うものですよ。

そう言われたような。不思議な洗礼をうけて、

私のロンドン生活がはじまった。

人々の話し声が、テープの逆回転のようにしか聞こえなかった一年目がすぎた。

英語も話せない私は働くわけでもなく、ぶらぶらと近所を散歩して歩いていた。

寝る間もなく働いていた東京でのライター時代とは、真逆の生活を送っていた。

青くぬけた空。

白い石造りの建物。

からっとした自由な空気。

さまざまな人がいて。

何もかもが新鮮だった。

絵描き、ミュージシャン、デザイナー、作家、映画監督、

出会う人すべてがアーティスト。その表現者の多さにおどろいた。

私は少しずつロンドンの生活に慣れていき、

バイトもし、イギリス人の友達も増え、

徐々に英語の聞き取りもできるようになっていた。

ロンドンの生活も2年が過ぎようとしていたころ。

私は、ニーナ・ミランダとクリス・フランクという

ミュージシャンが大家さんをしているフラットに引っ越していた。

1Fが彼らの住まいで、私が2F。

私は時間があると1Fに遊びにいって、

一緒にお茶を飲んだ。

「優子はどんなことに興味があって、どんなことが好きなんだ?」

彼らにはそんなことをよく聞かれた。その質問は、知り合う人、友達、出会う人みんなに聞かれた。私はその都度自分のことを一から振り返らなくてはならなかった。

何が好きで、どんな人間か。

なんのために、ロンドンに来て、

なんのために、仕事をして

なんのために、存在しているのか?

そんな質問が頭の中をかけめぐった。

「なんのために、生きてるのか?」

お金のために働いていた私には、すぐに答えが出なかった。

アーティストである彼らにはいつも言われていた。

「書きたいものがあるなら書かなきゃ」

ちょうどニーナとクリスは、新しいCDアルバムを作っていたところだった。

その日もニーナが手描きでアルバムのデザインをしていた。

私は一緒にソファに座って彼女の描く絵を見ていた。

カラフルな色使いでヘビが楽しそうに踊っている絵だった。

「こっちとあっちどっちの絵がいいか?」

「ここはこの色にしようかと思うけど、どうかな?」

そんな簡単な会話をかわした。

私はすっかりくつろいでニーナの絵をみていた。

自分の部屋にもどったその日の深夜過ぎ。

激論を交わしたわけでもなく、激しい音楽を聴いたわけでもなく、

お茶を飲みながら、ニーナの描く絵を横で見ていただけなのに、

布団に入っても私は興奮してなかなか眠れなかった。

それどころか空想のようなイメージがどんどん膨らんでいった。

そうだった!

私はトウモロコシの粒が主人公の話を書くんだった。

イメージがおしよせてきた。それは11話から成る短編集だった。

書かなくてはならなかった。イメージが押し寄せてどんどん膨らんだ。

ほぼ眠れないまま朝が来た。

次の朝。ニーナに言われた。

ニーナ。

「きのうの夜眠れなかったんじゃない?」

私。

「どうしてそれがわかるの?」

ニーナ。

「だって私も頭の中がぐるぐるして、ぜんぜん眠れなかったから!」

その晩から朝にかけて、

脳みそがパカッと割れたかのように

インスピレーションがおりてきた。

もう自分をごまかせなくなっていた。

私は最初に書いた作品を笑われて以来、

絶望し、自分には何もないと

封印してしまった“書く”ということを、

もう一度やってみることにした。

書く、表現する、ということは私にとって、

生きている目的の一つだったのかもしれない。

あまりにも存在理由に近い衝動だったので

否定されたら生きている意味がない。

それぐらいの気持ちだった。

表現したいものがあるのならなんでも自由に表現するべし!

ロンドンという町は表現することを

全力で応援してくれている、そんな町だった。

私はロンドンに住みながら

だんだん「書く」ということを意識していった。

「外国には自動販売機なんてねーよ」

あの日から10年が経っていた。

10年ぶりに書くトウモロコシの話。

最初にインスピレーションをもらったあの話。

ずっと封印していたため、

電車の中でみたあのイメージ、あのインスピレーションが、

自分の中にまだ残っているのか、心配で、怖かった。

手探りながらゆっくり書いた。

ちょっとずつイメージが戻ってきて

あ、こんな話だったんだ、っと、

少しずつ、でも、新鮮に思い出した。

とうとう体の中にあった話を外に出すことができた。

一つ作品がおわったら、次の作品を書く。書き終えるまでは、次がどんな作品かわからない。次の一行がどーなるのか、どういう結末なのか、自分でもわからない。何かを書くってスリルとサスペンス。

それまでの私は、お金を稼ぐためにライターをして生きていた。

自分にとってそれは、真の部分で何がしたいのか、

何を書きたいのか無視している、ということだった。

ロンドンでの生活は、本来書きたいことがあるならそれを書いていいんだ、ということを思い出させてくれた。その一歩をふみだす、もう一度書きだすきっかけになった町だった。そしてそれで充分だった。

私は帰国し実家のある福島に引っ越した。

実に高校生の時以来、福島に帰った私は、

実家のお寺掃除と原稿を書く、という毎日を送った。

パラサイトもいいところだった。

寺にもどって最初に書いた話は「ザクロ」という話だった。

夢でみたイメージを冒頭にもってきた。

少女が大人の女性に変化していく過程を書きたかった。

ロンドンにいながら、いろんな女友達に、

初潮を迎えたときの話をインタビューしていた。

たくさんの人種が集まるロンドンで、

どこの国の女性もみんなだいたいその時は、

恥ずかしさと困惑を感じたといっていた。

それって世界共通なんだ。

国は違えど気持ちをわかちあえた気がしてうれしかった。

少女から女へ、女であれば誰でも通るであろう

変化の話を書いた。

ある日お寺で留守番をしていると、親子がお金の無心にやってきた。

私はお金を与える側として、その場にいた。

息子の前で、息子と同じくらいの年齢の女に「お金をください」っと、

頭をさげる。そうできる父親の迫力に絶対的な意思を感じてこころが動いた。

父と息子の話が書きたくなった。

それで誕生したのがa man of srrawだった。

以下はそのラストシーン。

○ ○ ○

『その日の午後。外門のベルがジージーっと鳴った。

アポイント無しの来客はスリルがあって、どこのどいつかとその面を確かめると、ゲートの外で、身形の汚い老人が申し訳なさそうにびくびくと背中を丸めていた。白髪混じりの髭は伸び放題で、何色なのかわからないボロボロのローブから紐がだらりと垂れ下がっていた。

「なにか仕事はもらえないでしょうか?」

行方不明の息子を捜しにやってきたのだが、一年、二年と捜しているうちに貯金が底をつきてしまった。やっと見つかったと思ったら持ち金がすっかり無くなってしまい帰りのお金がない。なんでもしますので仕事をください。老人は擦れた声でいう。事情を説明しおわると、おずおずと頭を下げた。見ると奥のほうに息子らしき男が薄く佇んでいる。息子のためならなんでもする。身形は汚かったが覚悟はあった。足の悪いここの主はその父子には少しの興味も示さずに、草むしりでもさせなさいと答えた。

中庭の芝の間に生える草たちは、夏の日差しをすいこんで青々とその生命力をみなぎらせている。芝刈り機だけでは刈りきれない草をお願いすることになった。父と息子は、草むしりの場所を定めると一心不乱に草むしる。彼らはほとんど口を利くこともなくもくもくと仕事をこなした。太陽の下で汗をかきながら草を刈る二人の姿は、とてもよく似ている。

主は、仕事が終わった父息子にコインを2枚、渡すようにと言った。コイン2枚じゃ隣街へ行く運賃にもならないじゃないか、と、内心心配したが言われたとおり渡されたコインをかさかさに乾いた父の掌にのせた。父と息子は深深と頭を下げて「ありがとうございます」と言った。父は一つのコインを息子に渡した。息子もおずおずと頭を下げる。父と息子はそれぞれのコインを1枚ずつその掌に握り門の外へ出て行った。二人は同じような歩き方で去っていく。静かに歩く二人の背中はほんとうにそっくりで、父と息子は、離れていたお互いの時間を取り戻し、いたわり合っているようにもみえた。中庭はキレイに雑草がなくなっていた。見るとそこにはもう父と息子の姿はなく、雑草のなくなった美しい庭に陽炎が出ていた。』

○ ○ ○

そんな調子で話が出てきて

作品はできあがっていった。

11話の話はほぼ完成し、

2011年4月から、私は東京に引っ越すことになった。

2011年3月11日。

地震がおきた。私は福島にいた。

冗談みたいに大きく揺れて、

駐車場のアスファルトが大きく波うっていた。

家族がみな駐車場に集まって固まっていた。

家の中にはお金や通帳があったけど、

そんなものは一瞬にしてどーでもよくなった。

ただ家族の無事が確認できた。それだけでよかった。

夕方を過ぎると雪がちらついた。

あまりの揺れで、ガス、水道、電気、すべてとまった。

私たち家族は車の中に入ってTVを見た。

TVの中で大きな津波がおきていた。

「死ぬ!」

地震で揺れながら、死を意識した。

痛いのは嫌だけど。死ぬのは怖くない。けど

あの原稿を本にするまではぜったいに死ねない!

お金より大事なもの。

今はあの原稿を本にすることが

何より、大事だと、大きく揺さぶられながら、

そう、おもった。

3月11日。

4月1日。

弟夫婦の車に荷物をのせてもらって、東京へ引っ越した。

福島ナンバーの車は、否が応でも注目をひいた。

原発が爆発してしまったこのとき。

私は自分がばい菌のように感じていた。

東京に受け入れてもらえるのか、不安なまま、

私の2度目の東京生活がスタートした。

いざ、東京生活がはじまってみたものの、

何をしていいのかさっぱりわからなかった。

被災してしまった福島が気になるし、

やる気も出ない。私は、床に大の字に寝転がって、

ひたすら時間がすぎるのを待つような毎日をすごしていた。

できあがった原稿を持ち込もうにも、

どこに持っていったらいいかわからない。

気持ちはあせっても、体が動かなかった。

さすがに貯金が減ってきた。

何かしなければ、と、急に思い立つと

出版社にライターをさせてほしいと営業に行った。

東京では出版関係の仕事しかしていなかったので、

他の働き方が思いつかなかった。

実際に自分で買ったこともない雑誌。

男性の編集者が面接をしてくれた。

丁寧な対応で「企画書を書いてほしい」といわれた。

“とりあえず職探しをしていただけ”という私に、

いいアイディアは浮かばなかった。

あの雑誌だからダメだったのかも?

と、あきらめがつかなかった私は、

もう一社、雑誌に営業をした。

けれど、企画書をだしても自分をアピールしても、

結果は同じ。どの雑誌からも仕事の依頼はこなかった。

貯金はどんどん減っていった。

私は完全に社会から切り離されていた。

仕事が見つからない状況と平行して、

書き上げた11話の作品をどうしようか考えていた。

どうすれば、本になるんだろう?

どこかの賞に応募しようか。

文字数が微妙だったけど、ぎりぎり範囲内の賞があった。

文字数で一番近い作品を選んだ。

真新しい封筒にプリントした原稿をつめて送った。

それでも、いてもたってもいられなかった私は、

次に持ち込める出版社を探した。

「郵送してほしい」という出版社を見つけたので、

会ったこともない担当の人宛に、束になった原稿を送った。

だめ押しに直接手渡しできる出版社を探した。

原稿を受け付けているところを見つけると、

さっそく電話で直接の受け渡しを希望した。

対応してくれた女性の編集者は、

とまどいながらもOKしてくれた。

1階におりてきた女性編集者は、

透けたガラスの扉越しに、軽く会釈すると、

扉を完全にあけることもなく、

その隙間から手だけ出して、受け取った。

あっけなく原稿は、出版社の中に吸い込まれていった。

あらゆることをしようと、

いろいろ動いてみたけど、

いつまでたっても、どこの編集部からも、

なんの音沙汰もないまま、時間だけがすぎていった。

だけど私は、どーしてもこれを本にして世に送り出したかった。

その原稿には、自分がそれまで見て経験したことが凝縮されていた。

こわがりだった子供のころの私は、充分すぎるほど怖い体験をした。

出口のない闇のような感情、魂、ことばにならないすべて。

そこでの経験、自分が感じた感覚、そのすべてを表現したかった。

自分が感じたことを表現することで、何かしら人のこころに触れたい。

本当は人の役に立つことがしたい。

地震で大きく揺さぶられたときにも、

ロンドンでふたたび表現の一歩をふんだときにも、

こどものころ作家になりたいと憧れていたときにも、

いいや、その前から、きっと、気づいていた。

私は、表現することで、人のために何か貢献したかった。

どんな仕事も、その人自身を表現しているとするならば。

私もまた、まっこうから、自分の表現をしたかった。

それなのに役に立つどころか

仕事もない、本にもならない、

呼吸をして、生きているのがせいっぱい。

何のために、生きているんだろう。

役にたたないのなら、死んだ方がいい。

だけど死ぬことが得策ではないこともわかっていた。

仕事がないこと、お金がないこと、原稿が本にならないこと、

何より人とつながっていないこと、それが、地獄だった。

生きながら、死んでいる、そんな毎日だった。

貯金がすっかり底をつきていた。

生きながら死んでいる場合ではなかった。

私は本を出版するといったことをいったん手放して、

新しい仕事を見つけた。文字校正という仕事だった。

あおり、パタパタ、消し込み。

出版業界にいて、ライターをしていた時には

知らなかった校正用語がたくさんあった。

ただひたすら間違いを見つける仕事。

原稿を重ねてパタパタあおると、

違っている部分が動いて間違いが見つかる。

校正者はひたすら間違いをただしていくことに集中していく。

現場によっては何人か一組のチームで校正する。

みんな早くて正確に間違いを見つけていく。

落とすことがゆるされない印刷前の最後のバトン。

集中力がそのままお金になっていくような、そんな仕事だった。

日によって、さまざまな会社に潜り込んで校正をした。

影武者のように、ひたすら地味にみんなの作った原稿に

間違いがないかチェックしていく作業だった。

ひさしぶりの仕事は働ける喜びに満ちていた。

しばらくすると新しい現場をまかされることになった。

遠方な上に一人で入らなければならない、難易度の高い現場だった。

漏れがあれば責任は自分にのしかかってくる。

私はそのときまだ、一人で校正をしたことがなかった。

はじめて入る一人現場。

私は緊張しながら、到着した。

出迎えてくれたクライアントは、背が高くて、まだ若そうな男性だった。

細い体にシャツにベスト。どこか、ルパン三世を彷彿とさせる雰囲気。

ルパン三世は、てきぱきと場所を案内すると、無駄なく仕事の内容を説明してくれた。会ったことのないタイプの人だった。細くて、若そうなのに、ずいぶんパワフル。まったく仕事に集中すると、それ以外のことが世界から消える。ロボットのような正確さで、仕事を遂行していく。だけど、なにか独特のユニークさがにじみ出ていて、こういう人はプライベートでいったいどんな顔を隠しもっているんだろう? そんな想像をかき立てられる不思議さがあった。それがその現場で出会った、T.HASEの最初の印象だった。この時はまだ、この人が、自分の人生を大きく左右する存在となるなんて、夢にも思わなかった。

現場の繁忙期になったある日。

先輩の校正者と2人で入る日がきた。

私は、質問できる喜びと、やっとチームで校正できる安堵で先輩を待った。

スーパーの袋をぶら下げてやってきたその人は、出会う人みんなを緩ませるような空気を持っていて、肩の力のぬけた男性だった。買ってきた菓子パンをほおばるその様子にすっかりうちとけてしまった私は、気がつくと最初からため口をきいていた。優しいせんぱい。それが、金川さんとの最初の出会いだった。

金川さんと一緒に入った現場で、

待ち時間が異様に長かったある日、時間潰しに世間話をしていた。

「どんな作家が好きか」と聞くと、一度も聞いたことがない作家さんの名前がぽんぽん出てくる。金川さんは筋金入りの読書家だった。彼の本への、作家への想いは、熱くて鋭く、語り口こそ柔らかかったが、その文章への審美眼は、常軌を逸していた。その鋭い熱によって、あきらめていた私の何かに火がついた。

そうだ。そういえば、すでに完成した原稿を持っているんだった。

どこに持っていっても、うんともすんとも言われなかった原稿。

私は私で、これまでどんな仕事をしてきたか軽い身の上話をしながら、

自分が作家志望だったことを思い出した。

すっかり本を出版することをあきらめていた私は、

急に目が覚めたように、ホコリをかぶってしまった夢を

大急ぎで、ひっぱりだした。

ここに話をきいてくれる人がいる!

本が好きでしょうがない人がいる!

出版できずに、表現できずに、人の役にたたずに、ただ隠れていただけの原稿を、私は持っている。出口の見えないトンネルに光が射しこんだ。

私は、金川さんに夢中で話していた。

金川さんは、ぼそっと言った。

金川

「俺、ISBNコード持ってんだよね」

「何それ?」

金川

「本を出版するのに、必要なコード」

「なんで、そんなものを個人が持ってるの?」

金川

「本を作るのが夢でさ」

本を作るのが夢!?

それを聞いた私は、現場で仕事中だったにも関わらず大きな声を出していた。

「え!!! じゃあ、私の原稿、読んで!!!」

そうして私は、今まで誰にも必要とされなかった原稿を、金川さんに送った。

一週間もしないうちに、金川さんからメールが送られてきた。

以下のような、内容。

「あれだけゆうからには、相当書けるんだろうと思っていたけれど。

それでも、予想の斜め上をいっているところがあった。

本にしましょう! 出版しましょう!」

作品の感想を丁寧に書いてくれていた。

お世辞のない、直球の言葉が胸に突き刺さった。

死んでもいい。

それぐらい、うれしかった。

〜了〜

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