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泰-2 黄色い光と生きるなら

想像と全然違った。
タイの王室は僕の想像より遥かに社会に浸透していた。「アジア」という同じ音を持つ日本と東南アジア、初めは共通点と繋がり探しに思いを馳せ日本をたったが、違いの方が格段に多い。

街、道路、あちこちに飾られる王族の写真。黄色や紫のリボンで華々しく飾られたパネル。王立大学。王族の名を冠した美術館。戦後日本ではまず味わえない王族との距離感。
僕の中で立憲君主制の濃淡がじりりと広がるのがわかった。
タイ王室は、現代タイを強く支える骨組みらしい。それでいて限りなく身近だ。

タイ王室に対する僕の初めての切り口は2020年、学生から始まった反政府運動と王室批判。不敬罪が現行の法律に存在するタイでは極めて珍しい出来事だ。原因はいくつかあるが、コロナ禍による国の混乱の中、ワチラローンコーン王が欧米に避難したことがきっかけとなった。
僕はタイ王室について、反政府運動の非難対象という極めて狭い眼線からの見方しか知らなかった。

ゼミで初めて王室批判を知った時、僕は王室の崩壊や消滅を最終形態として意識した。でも、反政府運動で王室批判をした人々は、王の行動の変化を要求しただけで、辞めろとは言っていない人が多かったのだろう。そのくらい王室の存在の浸透度が高い。崩すという言葉は少し味付けが濃すぎた。
そもそも国の上部組織の変化に対するイメージは、日本の内閣総辞職が僕の最大値であった。王室がそれと同じ重さで辞めたり集まったりするわけないだろう。浅はかだった。そんなわけあるまい。

そのくらい日本とタイでは王室と社会の関係性が異なる。一度バンコクの土を踏んでごらん。日本の政治家の選挙ポスターに近い頻度で王室の人物の写真を目にすることになるぞ。
あまりにも揺るぎない、チャオプラヤの安寧を司る大きな存在だ。
特に、前国王のプミポン国王はタイ地方部へ自ら積極的に足を運び、戦後タイの成長を献身的に支えた。バンコク北部のドンムアン空港にはプミポン国王の写真が大きく4枚飾られ、国民からの信頼度の高さが伺える。おそらく地方視察時のお姿だ。


じゃあ僕は反政府運動に参加した学生を100の気持ちで否定できるだろうか?真摯にインタビューに答えてくれた年の近いあの人にもうやめよう、大人しくしろだなんて。
無理だしそうする必要もない。でも同時に、僕は「勇気を持って」とか「信じれば叶う」とか強く絶対的に発せられる人間じゃない。僕は犯罪者の背景に思いを馳せる性質の人間だ。それも間違いなく必要だ。

社会の変化を願って運動を起こしたのなら、次はしたたかかつ冷静に仕組みを利用して言葉を編むのだ。Twitterとデモは広げることしかできない。知見の共有交換なんて期待する方が間違ってる。昂る感情のままに言葉を乱投したところで行末は変わらない。
タイであれば、王室が国の基盤を作る仕組みの中で不敬罪を避けつつ、苦しみを伝える工夫がきっと必要だ。黄色い光に赤い炎をいきなりぶつけるのではなく、徐々に交わらせていくような工夫がいる。

これはデモや容易な手段をやったあと初めて考慮すべき難易度の高いことである。
だってデモは必死だ。きっと大声で物理的に、本能的に示すほうが簡単だ。だから限界で切り詰めた状態でもできる切実で大切な最終手段。
不安ストレス焦りの下で戦略を練り、システムを利用して行きやすい環境を作る。大変なことだ。

デモを起こす必要が生じる前に策を打っておくこと。社会という巨大なものと自身という極小なもの、各々の調合で両方の火を最低限絶やさないようにする工夫がいるのだろう。
ただし上部組織も一般人も同じ人間だ。それができたら戦争もおきていない。これからも必ず政府と人々のすれ違い、軋轢はおこる。その時にすべき方策を練るということ。

言い訳で締める。僕は外の人間で、タイ国の学生が被った被害は受けてないから呑気にこんなこと言えるんだ。
他の要素についてはまたの機会に綴る。

…ということを実は大学3年間ずっと感じていたよ。僕の大学の授業では声を上げることと理想論で大体話が終わってしまい、その先は「難しいね」という言葉で省かれてしまうことが多かった。例えば留学したとして、同じようなわかりきった話をするのはごめんだった。
留学と単独渡航に良し悪しはない。学びたい、考えを巡らせたいと望んだ時、僕にはたまたま後者が合っていた。ゼミ論をしっかり書くゼミに所属していたため、論文との照らし合わせ方をちょっぴり知っていたのが幸運だった。

僕の感じていた違和感がタイでの経験を通して少し言葉になった。
今はクアラルンプールのインド人街から聞こえる容赦ない太鼓を鼓膜に刻んでいる。

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