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越-2 いのちという仮定

ホーチミン最終日に僕の脳を叩いたこと。
渡航レポートは社会について書くから、こっちでは自分について書く。てか新鮮な感情を残しておきたい。めずらしく。

いのちという仮定について

なんのためにとか好きなことやりたいこと言葉にしすぎると手垢で意味が霞んでしまうから、ゴム手袋を介して多少丁寧に扱っている。この言葉たちをポピュラーに商い的に打ち出しすぎると今度こそ終わる気がしている。から、少し慎重すぎるくらいがいい。

僕はずっといのちのことを考えていたのかもしれない。今まで自身がどんな特性を持っていて、何が好きで、どうしたいのかわからなかった。自分のことが一番言葉にならなくて心底焦っていた。衝動や本能がもつ意味の表層にとどまってそこから先が見えず、注目を集める分野で充実を演出する知人に対し劣等感を抱いていた。

でも僕は綺麗な意見を貫くことは受け入れられなかった。大きな集団には軸がいる。それは1人によって導かれようと、集団から自然に生成されようと、少なからずつるっとした言葉になる。頑張ろうニッポン!とか。このとき、あまりにも多くの言葉が溢れ、すべって落ちてなくなってしまう。社会という目でみるならスケール的に致し方ないのだけど。

世の中に溢れる、政治家が掲げる平和や豊かさの文字の中に、インターンで散々な思いをしたけど強く走るお前や、不器用だがひたむきに文字を送ってくる君、価値観が違いすぎて2度とむかつくし喋りたくないかつて恋したてめえが本当に含まれているのだろうか。

心の手足は日常的にもげる。頑張ろうという言葉の政治性と風通しの良い返答を先に疑う。過剰にはめられた足枷を笑顔で受け入れなお健気さを求められる不条理。清純信仰。人は簡単に死ぬ…。

より個人レベルで溢れた音たちを拾いたかった。正体不明で見えないのにそれらが一番大事だと、第6感がすんでのところで僕をつねって教えてくれた。
今まで何かわからなかったのだけど、とりあえず「いのち」の3文字で仮置きしたんだ。

僕が毎日流した涙も、バイト中に「なんで回ったの?」て言われたのも、カニバリズムより鋭い現実のざわめきを認識したのも、ロマンチスト草薙素子を好んだのも、リアルないのちに強い興味を持っていたからかもしれない。それでいて、いのちに関するアンテナが人より強めなのかもしれない。

ホーチミンのクラクション、アドリブ性、社会主義、周りの人の観察から繋がった自分に関する考察。

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