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フルーツフレーバーティーを贈ります ①

第一話 「柚子ミントティー」

※「東と西の薬草園」から派生したお話です。

かえる亭は果実町というフルーツが自慢の九州の山里にあるレストランです。
レンタルガーデン「峠道の貸庭」に併設されています。
シェフの名前は井中蛙(いのなかかわず)で、レストランの名前は彼にちなみました。普段彼はほとんどの人から「かえるくん」と呼ばれています。

本名で呼ばれる事は果実町に来てから、全くありません。彼は関東から九州に来た移住者です。少しだけ疲れて庭師の祖父の家に居候するつもりが、果実町に来て不動産営業の職を得て、レンタルガーデンのスタッフ兼レストランのシェフに転職する事になりました。

30歳を過ぎ、40歳を前にして人生の新たなステージに立ちました。

レストランはまだオープンして数ヶ月。冬はレンタルガーデンの休庭期なので一時期の忙しさからは解放されています。

その代わりに、彼は店の新たなメニューの開発に熱心です。レストランを開業してからほとんど出来なかった趣味のパンやお菓子作りも再開しました。

「パンの焼ける匂いがするとなんだかホッとするね」

パン作りはレンタルガーデンの責任者のハルさんに手伝ってもらっています。長く地元を離れて働いていたそうですが、かえるくんと同じ時期に果実町に戻って来ました。
ハルさんが果実町にいなかった時期に何をしていたかをかえるくんは、ほとんど聞いた事がありません。しかし、ハルさんはかえるくんの人生において一番気軽に付き合える人でした。お互いに果実町に来る以前のこれまでの事は話せなくても、日々の出来事の些細な事件などはかえるくんはハルさんにほとんど話しています。

「そうでしょう。パン作りは気持ちが明るくなるんだよ。やっぱりレストランで手作りパンを出したいなあ」

「パン屋さんをするならともかく、他の料理も作るのに、パンまでは無理でしょう。ハーブティーもやって、デザートも作って、パンまで、欲張り過ぎだと思うな」

ハルさんに諭されても、かえるくんは諦められません。果実町に来るまで料理を仕事にする事など考えた事がありませんでした。しかし、みんなに「美味しい、美味しい」と喜んで食べてもらううちに、料理こそ自分の天職であると気づいたのです。
もちろん、庭師の祖父を尊敬しているので、レンタルガーデンのスタッフの仕事も続けていきたいと思っています。
あれもこれも欲張り過ぎというのは自分でもわかっているものの、自然豊かな果実町の暮らしの中でかえるくんのやりたい事は増えていくばかりでした。

カンカンと冬の風が窓を叩いたかと思うと、キイッと音を立てて木製の扉が開き、誰かが店に入って来ました。

「いらっしゃいませ」とかえるくんが言う前にハルさんが、お客さん用の膝掛けを持って出迎えました。

「香さん。すっごく、濡れてるよ。雨の日なのに庭作業したんでしょう。風邪引きますよ」

「サシェを作るのに花やハーブが欲しかったの。臭い消し、いや、魔除けかな?最近、気分が上がらなくて」

「寒いと気持ちも落ち込むよね」

「そういうことかな?うーん」

「香さん、何を飲む?身体を温めるものがいいよね」

かえるくんが声をかけると、香さんな店のハーブ棚を眺めながら、迷いはじめました。

「ハーブ飲むと食がすすむからなあ。パンのいい匂いもするし、美味しいと食べちゃう。せっかくダイエットしてるのに」

香さんは、数ヶ月後に結婚式を控えています。彼女も果実町に移住してきた人で、かえる亭がある山の敷地のオーナーである富居家の孫娘です。富居家は日本有数の飲料メーカー山鳥の創業者家族です。香さんのおじいさまが会長をしています。果実町をフルーツフレーバーで盛り立てた人で町や国からも表彰された辣腕家です。
香さんは果実町で酒造会社霧山の息子さんの霞さん(みんなにはヤマさんと呼ばれています)と出会いました。結婚式をするのは二人の希望でしたが、いざ、やるとなると知り合いの多い家柄の二人の結婚式ですからどんどん話の規模が大きくなり、それが負担で結婚式の準備を二人とも心から楽しめないでいるようでした。

香さんもヤマさんもレンタルガーデンのスタッフです。二人の相談に乗ってあげたい気持ちはあるものの、ハルさんもかえるくんも独身なので役に立つようなアドバイスをしてあげることができません。

「パンに野菜をたっぷり挟んで食べるのはどうかな?お肉やチーズがなくてもきっと美味しいよ」

ハルさんが提案してみたところ、香さんは困った顔で首を振りました。

「いや、お肉やチーズもほしいかも。チキンでいいからはさんでください。お願いします」

香さんは疲れた顔で注文しました。

「じゃあ、飲み物もこちらで選んでいいかな?これは、どう?柚子とミントのお茶。メニューにないけど、オリジナルだよ。柚子は肌に良いから罪悪感もないんじゃないかな」

「ーうん。罪悪感が消えたら食べすぎちゃうから困るけど、ホッとする。柚子の香りって好きなんだよね。偶には柚子風呂してみようかな」

「私なんて毎日のように柚子風呂してるよ。お肌は年齢には逆らえないけどね!」

ハルさんが明るく声をかけると、香さんはやっと笑顔を見せました。ハルさんは人見知りですが、暗い雰囲気を好まない人です。少し引っ込み思案の香さんとは気が合うようで、二人でよく富居家の山の屋敷で過ごしています。香さんは見知らぬ町でも、ハルさんのおかげで寂しさを感じる事なく過ごしています。

それはかえるくんも同じです。
ハルさんは社交的ではないですが、一緒にいて落ち着く雰囲気を持っていました。
茶のみ友だちにピッタリというか。
縁側ならぬ、庭先で毎日のように言葉を交わすとなんだか安心するのです。

「照り焼きチキンとチーズと野菜をたっぷり挟んだ堅焼きパンのサンドイッチをどうぞ」

「美味しそう。持ってきた柚子ジャムも挟んで良いかな」

「いいよ。いいよ。ピッタリだよ。お裾分けだよね。瓶にいっぱいほしいな」

「任せて。昨日、たっぷり作ったからね。いつでも要らないほどあげるよ」

ハルさんが笑いながら、柚子ジャムの蓋を開けると店いっぱいに柚子の良い香りが漂いました。店に差し込む夕日が温かで優しげです。

三人でサンドイッチに舌鼓を打って、たわいもない話をする間、香さんは不安な気持ちを忘れていました。ダイエットはまた明日から。
明日出来ることは今日しなくて良いとトルコでは言うそうです。香さんもちょうどそんな気持ちでした。

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