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水玉模様の窓辺で暮らす

 おはようございます。皆さんいかがお過ごしでしょうか。見知らぬ人である私の生活にご興味がございますでしょうか。
 30代の私にはきたるべき親の介護が待っています。親には絶対に介護をしないと言っています。でも多分親の介護をすることになるでしょう。そうでなければ、独り身の私が親に介護される立場になるかもしれません。
助け合っていると言うよりは、実家暮らしは互いに寄り掛かって生きているようなものです。独身は虚しくないけれど、自分の家を持てないのは虚しいと思うことがあります。
 唐突ですが、私は猫になりたいと思っています。猫になりたいと思っている私がどんな生活をしているか、テーマごとに今回お話ししたいと思います。

表紙。5月はCANVAを使い倒すのが目標です。

雨が好き

 水玉模様ってどんな模様だと思いますか?白地に丸いドットが赤とか黒とか自分の好みの色で整然と並んでいる模様を思い浮かべる人が多いでしょうか。
 私は水玉というからには、本当に水滴が何かに張り付いている姿だと思うのです。それが水玉模様でしょう。
 雨の日に私は体が痛くなります。窓に雨粒が当たるたびに、私の体も何かに叩かれるのです。窓辺に近寄って、外の天気を確かめに行くと、必ず雨が降っていることがわかります。それは目を開けて朝起きる前からわかるのです。なぜなら私は天然パーマだからです。子供の頃ほど髪の毛はくるくるしていませんけれども、雨の日は縮れて髪の毛が逆立ちます。髪の毛が引っ張られている感じで、雨音が聞こえてくる前に、私は目覚めながら、今日は雨だと気づくのです。
 雨の日の窓は縞模様です。雨粒が窓を流れていきます。体が痛いと、それが何かを引っ掻くような音にも感じます。本当に音がしなくても、雨粒が窓を滑っていく様子を見ると、どうにもぞっとした気持ちになることがあるのです。それでも私は雨が好きです。
 私が梅雨の時期に具合が悪くなる理由に、私が梅雨生まれだということがあるかもしれません。母はその日の天気を覚えていません。しかし、きっと私は雨だったろうと思います。そういう季節ですから。私が小さい頃、誕生日の度に熱を出していたそうです。年に1度だけ具合が悪くなるのが梅雨の時期でした。それだけ雨が降り続くことに敏感だったのです。生まれた時からそうなのですから、雨に対する私の体の反応は違ったものになる事はないでしょう。
 けれども、私は雨の日には外に出ます。嵐を探しに行って命を危険にさらす事はしません。庭に出るだけです。少しだけ雨に打たれると、雨を実感できてほっとします。雨が窓を叩く感じは体が痛くなるのに、本当に雨粒が体に当たっても痛く感じないのはなぜでしょうか。一方で、冬の雨は夏よりも魅力的ではありません。冬の雨の日はむしろ暖かく、体を痛めつけたりしないのです。梅雨の時期ほど敏感に、その日が雨だと気づくことができません。窓が凍るような厳しい冬の寒さが来る前に、晩秋から初冬にかけて結露した窓は水玉模様になります。それはカビの原因になるので、大人になって結露防止シートを窓に貼るようになりました。けれども、それは窓全体に貼るわけでもないので、やっぱり窓の真ん中の部分に結露した水玉模様ができてしまいます。
 この水玉模様の窓に倚って、一人暮らしをしていた頃は、よく朝焼けを見ていました。睡眠時間が短かったのです。今は毎日では無いですが、たまに睡眠薬を飲んでそれほど朝早くに起きないこともあります。二度寝します。
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 今私が着ているパジャマはドット柄です。私が買ったものではありません。母が人からもらったものです。可愛らしい赤い花の刺繍がされています。冬のはじまりの冷たい水玉模様の窓にはそっと寄り添いたくなります。けれども、着心地が良くて気にいっているドット柄のパジャマは、朝起きたときにその模様を見てぎょっとして、急いで脱ぎ捨てたくなることがあります。
 私は梅雨生まれで雨が好きです。けれども人生は冬のはじまりで冷たい水玉模様の窓辺に拠っているようなものだと思っています。

おふくろの味では無いわたしの料理

 お子さんがいらっしゃる方は、何歳になったら、そのお子さんを台所に立たせたいと思っていらっしゃるでしょうか?実際に料理を教えたりされるでしょうか?
 私は物心ついたときには、包丁の握り方は知っていたような気がします。けれども、母親に教えてもらったというような気もしません。もしかしたらテレビで見て覚えたかもしれません。
 少なくとも私は小学3年生のときには1人で台所に立つことがありました。なぜならば、その頃に母が大病をして入院していたからです。父や面倒を見てくれる親戚はいましたが、もともと共働きでしたから、小学生に上がると母が帰ってくる前には、何かしら作ってお腹を満たすことがあったようです。固定電話で母から連絡をもらって、お米を洗ってごはんを炊いておいてと頼まれることがたびたびあった気がします。
「あなたは私が帰ってくるまでぼーっと家で待っている」弟と比べて、私がぼーっと家で待っていることが多く気がきかないと母に言われたのはいくつの頃だったでしょうか。少なくとも母は入院して私に苦労をかけたと思っていたので、それを言われたのは小学校3年生よりも前だったと思います。
弟は母を待ちかねて、母が帰ってきた途端に「お腹がすいた」と言う事はなかったのです。母から電話をもらって私か弟自身が炊いたごはんでわ卵かけご飯や納豆ご飯を作って小腹を満たしていたのです。私は母からそんな風に言われるまでは、何も食べずに母を待っていて、どんなにお腹が空いてもみんなで一緒にご飯を食べたほうがいいと思い込んでいたのでしょう。
 たった1、2ヶ月の母の入院期間に、私はどんな料理を作ったでしょうか。ハンバーグや肉じゃがやカレーやチャーハンなど自分が名前を知っている料理を作っていたような気がします。和食って案外名前を覚えていないのですね。母がその病気で半分味覚を失ってから、私は母が味覚を失う前の母が作る白和えが好きだったことに気づきました。母の以前の白和えはおいしかったと思ってから、白和えの名前を覚えたのです。
 私は今でも白和えを作りません。作り方もよく覚えていません。自分が作っても母が以前作ってくれたようなおいしい白和えを作れる気がしないのです。代わりに煮物は母より自分が作ったものの方が好きです。忙しかった母は要領よく料理を作っていました。けれども、私はのんびり料理をするのです。鍋を焦がして火事になりかけるようなことも今はありません。IHのコンロになってガス火では無いので、自動で温めが止まるからです。
だから、私はより一層気長に料理ができます。もちろん鍋に張り付いてはいません。
 10分20分30分と鍋具材がグツグツと煮込まれるのを待っている時間がとても好きなのです。そういえば、私は和食なら子供の頃にはぶり大根を作っていたと思います。
大学に進学して一人暮らしを始めた頃、数年はぶり大根に凝っていました。作り方をよく知っていたという事はもっと小さい頃に作り方を覚えたのでしょう。
 けれども、もう今は飽きてしまったのか、最近では、ぶり大根を作る事はなくなりました。自分が過去にどういう味付けでぶり大根を作っていたのかも思い出せません。

猫好きで犬を飼い、犬好きになり猫を飼う


 人間は何歳くらいからペットと暮らすことが望ましいでしょうか?それとも、ペットという存在が人間のエゴでしょうか?
 私は小学校ニ年生から犬を飼っていました。大学に進学した頃に飼っていた犬が死んだので、最期を看取ることができませんでした。子供の頃にペットを飼うと、どうしてもそういうことになってしまいます。
 大人になって実家暮らしになってから私は猫を飼っています。そもそも子供の頃、私は捨てられている猫を見るたびに猫を飼いたかったのです。けれども、拾ってきてはだめだと言われていました。実際に私が拾う前に同じ学校の他の子が猫を拾うことが多かったのではないでしょうか。我が家は父が動物好きだったので、怪我した鳥を飼う事はありました。ただほとんど元気にしてあげることができませんでした。
 鳥と一緒に猫を飼う事は現実的ではありません。少なくとも子供の頃はそういう風に思っていました。ところが、我が家に犬が来ました。弟や私がねだったわけではないのです。突然犬がやってきて、翌年母が病気になって、その翌年に祖父が亡くなってから、祖父が飼っていた犬も我が家に来ました。
 動物を一匹飼うと、どうやらもう一匹増える運命に遭うようです。
 実家に戻って、すぐに我が家の庭に居着いて弱っている子猫が気になって飼ってしまいました。その二年後に痩せた猫が家の中に突入してきて出ていかないので、なし崩しに飼ってしまうことになりました。
 猫よりは犬の方が賢いとお思いでしょうか?私は案外、生存戦略は猫の方が賢いと思っています。一病息災というでしょう。
 拾った猫はほとんどの場合、病気を持っています。少なくとも弱っている場合がほとんどです。ニ匹目の猫は病気はありませんが、やはり後ろ足が悪いです。野良猫に怪我や病気はつきものです。
 人に飼われていない猫は、弱った姿を隠すでしょう。けれども、我が家の三毛猫は、鼻水や目やにを人間に擦り付けてくるのですね。人間に向かってくしゃみをします。具合が悪いと自らケージに入ります。心配されることに慣れています。
 子供の頃に飼っていた秋田犬は、人間に心配をかけることなど思ってもいない犬でした。番犬らしくいつも凛々しい姿で、死ぬ前日まで散歩にいきたがりました。ケージの中でおとなしく最期を迎えた犬ではありませんでした。どんなに弱っても、元々外で飼っていたので、家の中に入ろうとはしませんでした。番犬の役割を果たそうとしていたのです。
 畳の上で死ぬ猫の方が忠実に職務を全うしようとする犬より賢いと思います。私の性格は犬より猫です。ただ、自分のような猫を尊敬するかと言えば、やはり初めて飼った秋田犬は特別です。猫や人間がどれほど賢くても、その秋田犬以上に尊敬できる存在に会ったことがありません。

窓辺の景色

ひきがえるとハーブの季節


 晴れの日と同様に雨の日の早朝に庭に出ます。ハーブを摘んでくるのです。独り暮らしをしていた20代後半から30代前半までの10年近く、私は三食コンビニ生活でした。今は庭でハーブや野菜を育てています。冬のほんのわずかな期間以外にはほとんどの季節、庭で何らかの収穫物があります。
 桜の花が散って、ガーデニングの季節が始まります。その私の庭作業を窓辺で飼い猫が眺めています。雨の日にも寝ていたはずの猫がいつの間にか窓辺に来て、じっと私の方を見ているので、私は小雨に打たれながらすぐに家の中に戻る気をなくすのです。
 雨の日の翌日にうっかりミントを根元から引き抜くと、ヒキガエルの卵がくっついていることがあります。雨水で体を洗う小人のシャンプーみたいなその泡には確かに命が息づいているはずなのに、私はそれを感じ取ることができません。雨で流れなかった泡の命は外の水道の水で簡単に洗い流せてしまいます。
 雨の日とその翌日には土の臭いがよくします。香ばしい土のにおいを嗅いで、台所に戻って、ハーブの葉を洗っていると香ばしい焼き菓子やパンが食べたくなります。
 我が家にはホームベーカリーがあります。
 雨の日の早朝に、ホームベーカリーに種を任せ、お菓子を焼きます。寝付けなかった昨晩のようにヒキガエルの鳴き声は聞こえてきません。パウンドケーキやクッキー種を混ぜてこねて、型に入れて型抜きして、温めたオーブンに入れて10分15分焼くのを我が家の小さなオーブンレンジで数回繰り返していても、まだ日は昇りません。寝付けなかった雨の日は、猫も早寝早起きで、早朝の3時4時にごはんを催促してくるのです。あとたった1,2時間で日が昇るのが待てない聞き分けのない猫たちです。
 5時半を過ぎたら猫も人間もごはんにしようと、お菓子を焼く間に朝ごはんの支度をします。その頃には空も白んできています。おかずに飾るか、お茶にするかハーブの利用法が定まらないまま庭に出て、ハーブを摘んできます。流しにたまったあらいものを片付けて、金盥に両手いっぱいのミントを放りこんでたっぷりの流水でジャバジャバ洗うのです。
 流し台の正面の小窓から差し込む朝日でカビついたたらいも光っているように感じます。手がかじかむ朝に洗い物をしたくなるのは、この朝日のおかげではないでしょうか。昨冬に、やはり空がやっと白んできた時間に庭から生姜を引き抜いてきた時も、まだ泥の落ち切っていない生姜すら光り輝いて見えました。頭の部分だけ赤くのぼせたような頬をして冷たい土の中に埋まっていたのです。その生姜で作ったガリも春先に食べきってしましました。冬場に土の中に冬眠しているはずの虫たちも、その日は生姜とともに飛びだしてはきませんでした。しかし、2月の終わりには花壇や寄せ植えの鉢の中から冬眠したヒキガエルが現れました。まだ寝ぼけ眼で、こちらがじっと観察しているうちに土の中に戻っていきました。そのヒキガエルも3月の半ばを過ぎると細い春雨の音に交じって細く鳴きはじめ、梅雨前になるとミントの葉陰でもっと力強く鳴いています。ヒキガエルがいるということは、ミントにやってくる虫もいるということです。
 朝摘みのミントは区別もせずに、どれも同じような利用法をしています。
 白い毛の表面に生えた鮮やかなグリーンのアップルミントは香りもひときわ強いです。モヒートミントは茎が赤茶色でほかのミントの群れに交じると差し色になっておしゃれです。ペパーミントは何度も土に溶けてなくなってしまいそうになりながら、今年の春になって繁りはじめました。ペパーミントは少しだけもったいない気もしながら、この朝摘みのミントたちを鍋で煮込んでお茶にして、残りは除虫剤にして、出がらしの葉っぱは洗面器に放り込んで朝ごはんを食べながら洗面器に足を浸してフットバスを楽しみます。これは春から毎日の習慣ではなく、時折やることです。面倒くさければ、そのまま茹で上がった葉っぱを庭にまいてしまいます。少しでもそれで虫避けになればいいと思っているのです。考えてみれば、ミントだけであらゆる虫に忌避効果があるのならば、わざわざ煮込まなくても、虫避けしたい植物のそばにミントをはやしておけばよさそうです。しかし、今年はチャイブが野菜の病気を防ぐと知って、きゅうりやトマト、ナスとピーマンの苗のそばにチャイブを植えてしまいました。4月の終わりにネギ坊主が咲いても、昨年種をまいたチャイブはまだ成長途上です。ミントのように林になってしまったらどうしようと危惧していたのが馬鹿らしいです。
 そういえば、野菜の苗のそばにヒキガエルを見ません。葉っぱの繁りがミントより雨除けには不十分なのでしょうか。日陰にはカメムシも集まるそうです。しかし、より日陰であろうドクダミやミントの葉陰にはほとんどカメムシを見ないようです。やはり、薬草には一部の虫に対する忌避効果があるのでしょうか。その虫避け効果が実は人間の健康に良かったりするのでしょうか。虫には悪くて、人間には良い。そんな矛盾した、人間に都合の良い効果があるとすればミントやドクダミなどのハーブや薬草は魔法の葉っぱです。
 さらに、ハーブはカエルにも害を与えないようです。薬草とヒキガエルは相性が良いのでしょうか。
 昼ごはんや夕ごはんを作るのに、肉や魚の臭い消しのためにやはりハーブを摘みに行きます。セージか。ディルか。タイムか。どの葉っぱを料理にしようか迷って歩き回っているうちに、やはりヒキガエルに出くわします。そして、庭先に居ついた猫とも目が合います。夕飯を作って一人部屋に戻ってごはんを食べていると、日暮れ時の雨が止んで鳴き声が聞こえてくるようです。ヒキガエルの鳴き声か。外の猫の鳴き声か。それとも飼い猫の寝言か。家族の誰かが別の部屋でくしゃみをしたのかもしれません。くしゃみは時に、猫の鳴き声のようにも聞こえます。あるいは蝦蟇の油売り。

モンシロチョウの咲く庭で

 ミントが冬の寒さにへこたれないように、我が家の庭に、モンシロチョウは一年中飛んでいます。咲いても気づかれないミントの白い小さな花の代わりにモンシロチョウが咲いているようです。一方でモンシロチョウが咲いて、そこに本当に小さな花が咲いているのだと気づくことがあります。モンシロチョウが地面にとまっていると思ってみれば、必ずそこに花が咲いているのです。モンシロチョウでなく他の蝶が低い位置にとどまっていることもありますが、白いモンシロチョウはやはり目立つのです。モンシロチョウに先に気づいて、アゲハチョウも飛んでいるなとミントを摘みながら庭を眺めることも多いです。
 蝶がたくさん飛んでいるということは、幼虫もたくさんいるということです。青虫はアブラナ科の植物につくとは限らず、うっかり野草を食べようとするとまだ小さな幼虫がたくさんついていることがあります。実家に戻って野草に興味が出始めた頃にハコベを摘み取って食べようとしたところ、それについていた青虫の数にげんなりしたことがありました。サラダなんてとんでもなくて、茹でて炒めた後も鍋に浮かんだ青虫の影がよぎって疑心暗鬼になりながらおそるおそる食べました。
 菜の花がなければ、モンシロチョウは来ないということはないのです。たとえ今以上にミントの林の庭になったとしてもその上にモンシロチョウが咲くでしょう。モンシロチョウはより白い個体を見つけると、幸せな気持ちになれます。外来種と交雑して黒い筋の入ったモンシロチョウも多く見かけます。モンシロチョウとは違う名前のようですが、私は我が家に住むその白っぽいチョウたちをモンシロチョウと呼んでいます。

猫を語り、猫に語る

 猫が蜂を食べることをご存じでしょうか。家の中に現れるほとんどの虫は、我が家の三毛猫のおもちゃです。一方で食べたい虫の好みもあるようです。ミツバチやヒキガエルやヤモリは食べました。蜘蛛はどうやっても家の中に侵入してくるので、犠牲になる頻度が高いようです。一方で、猫が私の布団にお土産に持ってくるのも蜘蛛でした。
 私は思うのです。おいしくないからくれるんじゃないかと。
一番のごちそうを布団に詰めてくれたわけではないのです。ハエとかクモとかもてあそんでしとめるまでは楽しいけれども、喜んでかぶりつくには至らない、「飼い主にでも食べさせておくか」という気持ちで下げ渡してくるのではないでしょうか。どうやってか台所に侵入したもう一匹の麦わら柄の猫が牛すじ肉の脂身を私のふとんの中に詰め込んでおいた時から、どうもそんな気がしてなりません。
 まだ夜明け前の早朝にその肉塊を踏んで立ち上がった時に、きっとヒキガエルかヤモリを布団に詰められたのだと思いました。その時どれほど背筋が凍ったか。けれども私は叫ぶこともせずに、布団をすぐにめくったのです。雨の日だったので、洗濯して干せないことが気がかりでした。
すると、出てきたのが牛すじ肉だったのです。
 我が家の猫は牛肉をお気に召さないのかもしれません。私も牛肉をほとんど食べることがなく、キャットフードに牛肉が使われていることも少ないようです。猫が牛肉を食べなくても素晴らしい筋力を保てるのであれば、私も猫のようにハチやカエルや鳥を食べていれば健康に生きられるでしょうか。
 それでも、どうも猫と同じものを食べたいという欲が湧きません。猫に対する愛情が不足しているようです。
 私が猫とやりたいことは、猫のように眠ること。猫のように使うエネルギーを最小限にして単独生活することです。けれども、猫は思ったよりも寂しがりやで愛情深く、私が猫を飼うまでに想像していたように孤独を好む生き物ではないようです。
 猫は寝ているようで、寝ていません。まどろんでいるようで、周囲の音に注意深く聞き耳を立てているようです。私は猫をそばにおいて朗読をするのが好きです。猫はたまに飽きて、爪とぎをはじめたり、トイレに部屋を出て行ったりしてしまいます。けれども、まどろんでいる風で私の声を気に入って聞き入ってくれているようなのがなんともうれしいのです。私の声を誰より愛してくれているのは、私が飼っている三毛猫なのです。
 聞いていてつまらなければ、寝たふりをやめて窓辺に倚って、猫は庭を眺めます。しかし、それでも完全に聞くのをやめたわけではなくて雨音をBGMに私の朗読も聞いていてくれたりするのです。朗読をしている時、聞いている猫の表情は変わりません。静かに目を閉じていたり、じっと私を見つめています。
 猫を見ていると、感情は表情に表れるのが正しいあり方ではないと私は思います。おいしいものを食べたとき、好きな趣味を見つけたとき、雑巾がけした畳部屋に寝転んでいる時に私はすぐにでもその感動や良い気持ちを他人に伝えたいとは思いません。

 猫は獲物を見つけたときに本当に瞳をらんらんと輝かせているでしょうか。蜘蛛などの小さな虫をもてあそんでいる時の様子は淡々としているようです。けれども、積極的に食べたいと思うほどの獲物でなくとも虫を追いかけて転がしている時、内心では楽しいんでしょう。だから、たまにはその楽しさを人間にもおすそ分けしようと思うけれど、自分の一番の獲物を分けてあげようと思うくらいの気持ちではなかったりするわけです。驚かせてやろうとして大きい獲物を持ってくることはあるかもしれません。我が家の猫は人間も蜘蛛を食べないことを知っているのです。日々を穏やかにする感動というものがあります。私の今の暮らしの中で感じることです。喜怒哀楽の中で喜びが一番静かなのです。猫と暮らし、ハーブや花を育てている感動は表に出ません。誰かと喜びを共有するつもりで猫を飼い、植物を育てるわけではないのです。けれども、いらない獲物を分けてくれる猫と同じ気持ちでしょうか。こうして、日々の暮らしを記録しておきたい気持ちにもなるのです。おそらく表現することが生きがいの人は、わたしのようにはその感動も誰かに与えるつもりはないでしょう。
 猫と暮らすと、雨がますます好きになりました。私も猫も雨は苦手です。我が家の三毛猫はすぐに体調を崩します。けれども、雨の日の窓に倚って、嵐を探すことが好きです。風の音を聞き、虫の悲鳴を聞き取り、雨粒に打たれる冷たい窓に触れてしまわないようにしながら、雷が聞こえると興奮して前足を窓に掛けてしまうことがあります。おうちの中にいた方がいいから、雨が楽しい。猫と一緒に寝転んで、雨の日を穏やかに乗り越えて日々を過ごしています。

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