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【映画感想文】競走馬に魅せられた少女

馬に乗るのはどんな気持ち?

アメリカによって鎖国を解かれた日本の横浜で、初めて洋式競馬が行われたそうだ。海外から持ち込まれた文化は日本に根付き、今ではネットでも競馬にお金がかけられる。
しかし、私自身は競馬をテレビでしか見たことがなく、お金をかけたこともない。
適当に買っても当たらないだろうというのももちろんある。
だが、最も大きな理由は自分で馬に乗ることを想像すると恐ろしくなり、見ていられないからだ。

馬で颯爽と駆ける姿はかっこいいが、危険と隣合わせである。
そんなことを言ったら、人工的に作られた車や飛行機などの乗り物だって事故の危険があるじゃないかと思われそうだ。

しかし、意思のある生き物に乗るというのがなんとなく怖さが倍増するのである。

野生の猪に乗る子猿の勇気はすごい。
イノシシが猿の思う方向に進んでくれるわけじゃないだろうから、ただ楽しいからイノシシに乗るのだろう。
繰り返し乗る猿は馬に乗る快感が病みつきになるのかもしれない。

1920年のイギリスの12歳の少女は馬に乗れた

イギリスの田舎の肉屋の娘ヴェルベット・ブラウンは馬に魅せられた少女だ。

馬が欲しくてたまらず、近所の暴れ馬が1シリングで売りに出されると知り、くじ引きに参加する。度々脱走を企てて街の物を破壊する馬であったが、くじ引きに参加した町の人の多さからみるに、足の速い馬というのは当時のイギリス人にそれだけ魅力だったのだろう。
そもそも競走馬というものは、アラブ種からイギリス人が作り出したそうだから、イギリスは生き物に関する娯楽が好きな文化が根付いていたのかもしれない。

くじ引きが外れて泣きくれたヴェルベットであったが、娘の落胆振りを見た父が馬を手に入れてきてしまう。少し頭の固いところがあるが、最後は妻や娘の意見に折れてしまう気の優しい父だった。

あまりの嬉しさに卒倒するヴェルベットは、夢見がちだがしっかり地の足についた人物でもあった。馬を手に入れる前にマイというさすらいの青年と知り合い、その青年が馬に詳しそうなのを見込んで、父に取り付けて馬の世話係として雇ってもらうのだ。

驚くべきは、マイは馬の世話に乗り気ではないのに、ヴェルベットがパイと名づけたその馬をすぐに乗りこなしてしまうことだ。

家は肉屋なのか、貧乏ではなさそうで農地もそれなりにある。しかし、売っているのはラムチョップで一体どこで少女が乗馬技術を身につけたのか疑問である。そこは映画の設定だから突っ込んではいけないところだろうか。

ヴェルベットの運動神経は母譲り。母は、20歳の時に海峡を横断したという女傑だ。お金だけでなく全てにおおらかで子どもたちが望むことは、自由にさせる母親である。だから、3人の子どもたちは、長女は化粧にハマりマニキュアを弟にまで施し(イギリスは戦前から小学生が化粧をしていたのかとカルチャーショックを受けた)、その弟は嘘ばかりつきいつも虫をおいかけ、次女のヴェルベットは馬に夢中とそれぞれ空想好きな性格をしていた。

父親はもう少し現実的で、娘の馬を少しでも役立てようと荷運びに使おうとする。しかし、パイは荷車を壊してしまう。
父親がパイをどうするか心配するヴェルベットの言葉が衝撃的だ。

「パイを処理場に送るって。パイが猫の餌になっちゃう」

まあ、確かに今でも犬用ジャーキーに鹿肉や馬肉が売られている。馬がペットの餌になっても不思議はないのだが、ペットがペットの餌になるかもしれないという状況はなんとも言えない冷水を浴びたようなシュールさを感じた。それでなくとも、ブラウン家ではとても従順で可愛い犬を飼っているのだ。そのワンちゃんの餌になるかもしれないのか、、、と思ったら何だか。そもそも肉屋が競走馬を飼うという設定自体が現実的な皮肉に満ちている。

自分の経歴を隠してブラウン家に雇われているマイ・テイラーは世話をしているパイについて常に冷静な態度を心がけている。

パイを心配して泣き崩れるヴェルベットを慰めないが、しかし、とても競走馬としてとても見込みのあるパイについていろいろと口走ってヴェルベットに知恵を授け、競技会にパイを出場させるという夢をヴェルベットに抱かせてしまう。無理だ!無理だ!と言いながら、ヴェルベットに協力してしまうマイ。

競技会への申し込みにマイが発つ日、父親はマイが自分の荷物を全部持って行ったのを知り、「ロンドンに行ったら帰って来ないだろう」と内心呆れつつも、娘の友として快く送り出した。

そんなブラウン家の温かさに触れたマイは、酒場の誘惑に負けて参加費用を持ち逃げすることなく帰ってきた。

年齢も性別も関係なく馬を通じて育まれる愛情

参加費用や騎手の服の仕立て費用に充てられたのは、母がかつてドーバー海峡を横断した時に勝ち取った賞金であった。
ブラウン家の人はお金を稼ぐよりも、自分の人生を賭けることの好きな人たちだ。
そんな彼らにマイもだんだんと惹かれていく。
世界一難しいグランドナショナルの競技会に参加することに、マイはずっと反対だった。ヴェルベットに協力はするが決してパイに自分が乗ることはなかった。
しかし、競技会前日、雇うはずだった騎手が鼻持ちならないと分かり、ヴェルベットと共に怒り、騎手を雇うことをやめてしまう。

実はマイ・テイラーは、かつてマンチェスターの騎手だった。しかし、最後に参加した大会で勝利を収めたものの、落馬した選手が死んだのを見て馬に乗ることが怖くなってしまった。
一人、パイを連れ出して馬に再び乗れることを確認したマイは自分が出場するとヴェルベットに話に行くつもりだった。
しかし、騎手服に着替えたヴェルベットを見て、ヴェルベットの方が相応しいと彼女の髪を切って男の振りで出場することに協力することにする。

イギリス人って男性が必ず女性の頑固さに折れるんだろうか?と話の流れに疑問を持つが、実際は頑固な男性が多かったから、男性が折れたるといい意外性の演出なのかもしれない。そのあたり、イギリス文化を全く知らないからわからない。

かくして、グランドナショナルの障がいレースに出場したヴェルベット。30箇所の飛越があり、競馬を知らない私は落馬の多さに驚いてしまった。果たして大げさな演出なのか、否か。
マイが恐れて、馬に乗らなくなるのも無理はない。

ヴェルベットとパイは1位でゴールしたものの、ゴール直後に落馬したため、直後に騎手は騎乗していなければならないというルール上の抗議で協議にかけられてしまった。

未成年の少女ということもばれたが、結局は落馬で失格。偽証で刑務所送りにはならず、新聞の一面のスターになった。

反対していたのに、映画のオファーで金持ちになれると喜ぶ父。しかし、ヴェルベットはパイを見せ物にして負担をかけたくないと断るのだった。

馬の映画なのに、最後競走馬を映画に出すことを否定する結末になるとは・・・なんとも矛盾しているが、自分たちの実力が発揮出来ればそれで満足という少女の姿には映画らしい爽快感を覚えた。

なぜ人は馬に乗るのか?

果たして、競馬は危険な見せ物なのか、そうでないのか。
それほどまでに、ヴェルベットという子どもが馬と速く走りたかった理由はなんだろう。
競馬場には当時のイギリス文化が垣間見えた。
毛皮を着た婦人やノリの効いたスーツを着た紳士が競馬場に詰めかけて、双眼鏡を覗いたり、馬券や新聞を握りしめて頭上で振り回して熱狂しているのだ。
お金がある人が賭け事にハマり、お金に興味がない少女が馬で競う。
なぜ人は人を馬に乗せ、馬に乗りたがるのだろうか。
猿がイノシシに乗りたいのとはまた違うのだろうか。ただ楽しいだけなら、競う必要はなさそうだ。人は何かを競う時に、人間以外の動物を巻き込みたいものなのか。
芸を仕込むのは、動物もまた楽しそうで、探求も尽きないだろ。一方で、ただ一点に特化し、危険なほど高い飛び速く走る馬はどんな気持ちなのだろう。
その馬に乗る人間は馬にどんな共感を得るのだろうか。

自らも競技者でもあり、優秀な調教師でもあると証明したマイは、再び旅に出る。また、ブラウン家に戻ってくると約束を残して。
ラストシーンでは、お別れも言わず去って行こうとするマイを馬に乗ってヴェルベットが追いかけていく。

ヴェルベットはまだ12歳。マイとは馬を通して信頼関係を築いたが、それが友情や愛情にまで育つかはラストでもまだわからないのだ。

1944年に作られたアメリカ映画が、人間心理の謎を提示する。馬と人はどう関わるのか。
人はどうやって成長し、何を目指すのか。

ヴェルベットの母は言った。

「覚えておいて。人生は夢なのよ。物事は順番にやってくるのよ」

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