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我が家の庭の風景 part.104「女が耕す庭」

暖かくなって、やっと庭の土を耕す気持ちになってきた。
下手の横好きだ。広いばかりの散らかった、実家の庭でガーデニングや家庭菜園をしていて最近は毎日庭を耕している。鍬下ろすのが億劫で100回と決めてもなかなか骨が折れる。でも、そのたびにこういう力仕事を女性は男性に頼ってはいけないと思うのだ。
力仕事は男性だって嫌なはずだ。力仕事が好きでない、運動が好きでない男性だっているだろう。頼まれた女性よりも自分の方ができないとわかっている男性が断ったときに、引け目を感じさせてはいけない。
女性でも、男性でも同じことで向き不向きがある。女の子には、生物が向いていると言われたけれど、私は高校の時に地学を受講したかったと後悔している。化学が必須科目として決まっていて、文系だったから、理科は1つしか選択できなかった。一応近くを第一志望に書いたのだけれど、何故か希望が通らなかった。
そのせいだろうか。どうしても生物が好きになれなかった。今も自分の体調について、あまり深く知りたくないと思ってしまう。
病気になったら、医者に対する尊敬が深くなると思っていた。母がそうだったからだ。
しかし、おそらく私は子供の時から持病があった。それでも、人間の体の仕組みにあまり興味が持てなかったのだ。

何が好きとか嫌いとか考えたことがなかった。
だが、どうしても、受け付けないものと言うものはあった。

世の中には、電球を替えるのが嫌な男性もいれば、雪下ろしを手伝えない事情がある男性もいる。
力仕事を女性ができる範囲でやって、それが世間の衆目を集めない世の中になればいいと思う。
男性が屋根に登って作業をするなら、女性も屋根に登って作業をするのだ。
体の構造的に全くできる可能性がないなら別であるが、大抵の事は女性にだってできると示さなければならない。
世界の保守化を憂うるときに、なぜ女性は子供を産む頭数扱いされるのかと思う。男性だってかつては種馬扱いされていた。どちらも下品な発想には違いない。
結局、男性が嫌なことも女性が嫌なことも似たようなことなのだ。より男性らしい人、女性らしい人というのはいるかもしれない。
だが、自分が女性らしいか、男性らしいか、悩む事は、あまりにも虚しい。そんな事は他人が評価することであって、自分ではどうにもできないからだ。他人の評価を変えるために努力できる人間もいるだろう。しかし私には無理だった。

将来的に、世界は、男女の役割分担をやめるのだ。できる事はみんなでやろう。大抵の政治家にできる事は庶民にもできる。
政治家に不満をぶつけたって仕方がないではないか。自分にできないと思う事は、彼らにもできない可能性がある。彼らにできる事は、努力すれば自分にもできる可能性がある。

確かに私は小柄で力がない。努力したところで、畑作業の効率がどれだけ上がるかは知れている。それでも家庭菜園やガーデニングがやってみたい。向いてなくてもいい。
向いていないと言われたって、ときには土を耕すみたいに億劫なことがあったとしても、それでもやっぱりやってみたくて、花が咲くことや実がなることに、自分が関わっていると思うと嬉しいのだ。

我が家の2匹の飼い猫たちも、窓から興味津々で、私のへたくそな作業を見ていてくれる。猫の目を楽しませるだけで満足だ。

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