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我が家の庭の風景 part.84

8月末の早朝に電信柱に大量の渡り鳥がやって来た。鳥の種類は分からないがこの渡り鳥がおとなしくて、人間の眠りを覚ますほどの鳴き声ではない。
父が早朝から唸らせている草刈り機の音の方がよっぽど騒音だ。
さらに、窓に貼り付いた蝉の鳴き声となると、ビビビビ〜という断末魔の叫びであるから、それはそれは耳を塞ぎたくなるほどの音だった。
その蝉が、早朝ではなく夜に窓に張り付いていたのだからたまらない。
その日は早めに寝ようと、睡眠薬を夜9時ごろには飲んだが、眠気はやってくるのに、その眠気を蝉の鳴き声が度々振り払ってしまった。そしてとうとうその日は朝方の5時ごろまで眠れなかった。

私は子供の頃から草花を眺めるのが好きだった。虫よりも草花の観察が楽しかったのは、花は鳴かないからだったろうか。

吹きすさぶ風の音がうるさかったり、急にやってくる雷音に胸をドキドキさせたりする事はあっても、花を見て胸がドキドキするという事は無い。

恐ろしい気持ちのドキドキではなくても、私は心臓の音が聞こえる感じがあまり好きではない。

感動と緊張の違いがよくわからない。どっちも心臓が痛い。ズキズキドキドキするのである。

海外の翻訳者は、日本語の翻訳をするときに、このドキドキとかズキズキとかの擬態語擬声語などを表現するのに四苦八苦するそうだ。試しに翻訳アプリで「ぎゅっと拳を握りしめた」という言葉を英語と中国語に訳そうとしてみた。

すると、
英語では、
"he clenched his fist tightly"
中国語では、
"捏着拳头"
と表示された。

どちらも情緒的な表現にはなっていない。特に英語は、"きつく"と言葉を入れないと、拳を握るというニュアンスがわからない気がする。どうやったら"ぎゅっ"とするという表現ができるのか。翻訳アプリに日本語を何度も直して入力して、ようやく"きつく"と言う言葉を使えばいいとわかった。
私は見ているものや感じていることをどう表現していいかわからない時に、安易に擬音を使ってしまう。また、文筆業の方にも多く、そんな人がいらっしゃるかもしれない。これは日本人の性だろう。しかし、それを訳そうとする人たちは大変だ。
翻訳アプリもまだ日本語の情緒面まで表現するには至らないのだと思う。

日本人は実際に音がしていないのに、音がしているように表現することが多い。
例えば、我が家では初秋から昼過ぎになると、無数の赤とんぼが庭を飛び回るようになった。
私はホバリングするヘリコプターのように、トンボがぶんぶんうるさく飛んでいるように見えるが、実際にはトンボはほとんど羽音はさせていない。

飛んでいる様子が"せわしなく"見えるだけなのだ。それも忙しないと表現するのは、私の主観的な見方で、トンボは空をすいっと滑るように静かに飛んで見える人もいるだろう。

無数という表現もいっぱいいるのかいないのかわからないという感じがする。しかし、これについては、英語にも"数え切れない"にカウントレスという表現があるから訳は簡単だ。

しかし、本当に数え切れないほどトンボが飛んでいたのかと言われると、正確に言えば、我が家の前庭の上空を占有するほどというところかもしれないが、回りくどいから無数で良い。

そのくらいの数で十分うるさい。羽音はしないが、せわしない。近くでは見た目にうるさい。
トンボは通りを挟んだ田んぼの上に遠くほど近く、夕焼けに溶け込んで、胸がジーンとする感じに飛んでいるのが良いのである。ドキドキズキズキの緊張感や感動ではなく。

我が家にはトンボと名付けられた猫がいる。
名前を呼べば飛んできて、呼ばなくても、ごはんがもらえるかと飛んでくる。
野良根性がいつまでも抜けなくて、いつもごはんを探し回っていて忙しない。そして、目がでっかい昆虫みたいに、抜け目なくごはんの在処を見つける。いつも目がギラついている。よく何かに向かってジャンプする。
猫だから足音はそんなにしないはずなのに、ドスドスと歩き方がうるさく見える。

トンボという名前がぴったりだと思う。

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