『ダンボ』−違いを恥じるな、違いを誇れ−【ディズニー長編アニメ総チェック#4】

今回は「ディズニー総チェック」をしていきましょう。
ということで今日は長編アニメ3作目『ダンボ』です。

ちなみ今回のタイトルは本田圭佑さんの名言から引用してます。


『ダンボ』について

基本データ

  • 公開 1941年

  • 監督 ベン・シャープスティーン

  • 脚本 ジョー・グラント/ディック・ヒューマー
    ビル・ピート/オーリー・バタグリア/ジョー・リナルディ
    ジョージ・スターリング/ウェッブ・スミス
    オットー・イングランダ

  • 出演者 エド・ブロフィ/ハーマン・ビング ほか

あらすじ

サーカスの象ジャンボのもとに、コウノトリが赤ちゃんを運んできました。ジャンボは、心からの愛情をもって大切に育てますが、その子の耳があまりにも大きかったので、ほかの象たちから“ダンボ”と呼ばれて仲間はずれにされてしまいます。
悲しみに沈むダンボを勇気づけてくれたのは、ネズミのティモシー。ティモシーは、その大きな耳を褒め、ダンボをサーカスのスターにしようと懸命に知恵をしぼります。
そして、ついに夢がかなう日がやってきます…。

公式サイトより引用

今作は、怪我の功名だ

とにかく可愛いダンボ

この作品を見ると「ダンボ」の可愛さに、のたうちまわる事は間違いない。

ここで愛くるしいダンボの一挙手一投足を全て語っても良いのだが、それはこの作品を見ればわかる事だから、一々言及はしない。
しかし、その可愛さを堪能する。
それがこの作品の最大の楽しみ方だ。

さて、まずは『ダンボ』の話をする前に、ここまでのディズニー作品と、世間の反応について見ていこう。

ここまで「制作順」に「総チェック」をしてきたが、まず『白雪姫』を大ヒットさせたディズニー。
そして『ピノキオ』『ファンタジア』と、確かにアニメ技術のレベルはどんどん向上したが、これらの作品を作った事でディズニーは赤字に転落をしてしまったのだ。

その原因は様々あるが、要約すると技術を惜しむことなく注ぎ込み、結果として製作費が膨れ上がってしまった。
しかしこれだけ熱意とお金を注ぎ込んだにも関わらず、観客は好意的な反応を示さなかった。
さらに『ダンボ』制作時には「第二次世界大戦」にアメリカも参戦間近。
経済界から融資も期待できない状況になっていたのだ。

この状況に流石のウォルト・ディズニーも「お金を莫大に使うのはダメだ」と判断し、「きちんとお金の管理ができる男」ベン・シャープスティーンに監督を任せることにした。

つまり『ダンボ』は「節約して作られた作品」なのだ。

そのため、この作品はディテール・描き込みを削ぎ落としてシンプルに作られている。
結果として少ない要素で構成されたダンボは可愛いのだ。
つまり「お金がない」という、ディズニーとすれば「大怪我」な状態。
これが可愛いキャラクターをこの世に生み出すことになった。
まさしく「怪我の功名」だったと言えるわけだ。

過不足ないランニングタイム

ちなみに今作品は「64分」とランニングタイム(映画の上映時間)が短いのも特徴だ。

内容に関してはこれから後述するが、『ダンボ』という作品は語りたいテーマと、ランニングタイムに過不足がない。
つまり、物語の持つ「カロリー」に対して、それ相応の時間で語り切られるということだ。
それはキチンと観客に物語の「伝えたいこと」を真っ直ぐに伝えるのに一番適した方法でもある。
これもディズニーが、あまりお金をかけずに『ダンボ』を作ったかだ。
ここにも「怪我の功名」があったと言うわけだ。

”違い”がダンボをつまずかせる

ダンボは耳が大きい。
それが他の象との大きな違いだ。

この物語の世界観では、赤ん坊は「コウノトリ」が運んでくる。

運ばれてきたダンボは、初めは母親や、他の象に可愛がられるが、その耳が巨大だった。
そのことが、露呈するやいなや「気持ち悪い」「我々と違う」と仲間外れにされる。
「仲間外れ」とやや大人しい言い方をしたが、これははっきりと「差別」だと言い切っても構わない。

この作品は「他者との違いを”差別”される象の物語」なのだ。

ちなみに「ダンボ」を「ダンボ」と名付けるのは、意地の悪いおばさん象たちだ。
これは「DUMB」つまり「馬鹿」という意味の単語に「O」をつける、日本語だと「バカ夫」という意味になる。
「ダンボ=DUMBO」という名前は悪意の塊なのだ。

この耳が大きいという「身体的特徴」が最も浮かび上がるシーンがある。
それはダンボが大きな耳に、自ら足を取られつまずくシーンだ。
これは自らの「身体的特徴」によって、自らが苦しんでしまうことを表しているのだ。

好きで耳が大きくなったわけではない。
その、どうしようもなさが本当に痛々しい。
しかもダンボの受難のはこれだけには止まらない。

母親のジャンボは、息子を虐める人間の子どもから守るために大暴れしたことで、牢に繋がれてしまい、ダンボは唯一の心のよりどころさえも失ってしまうのだ。

さらにはこの事件で、ダンボは仲間であるはずの象たちに無視されてしまうのだ。(元々、ダンボのことを”耳が大きい”と差別しているが、それがより強くなる)

ダンボの仲間も「嫌われ者」

そんなダンボの友達になるのが、ネズミのティモシーだ。

ちなみに象がネズミを嫌いというのは「キリスト教圏」では広く知られていることらしいが、我々からすれば全く馴染みがない。
(むしろネズミの方が象にビビりそうな気もする)

今作ではダンボが喋らないこともあってか、この物語の語り部の役目も果たすのがティモシーだ。
ティモシーは哀れなダンボを救ってやりたいと、努力をするがうまくいかない。
そんな中、落ち込んでいるところひょんなことから2人はシャンパンを飲み酔っぱらう。

ここで見る幻影は、正直やばい。
『ファンタジア』の「時の踊り」にもあった、動物のバレエダンスを彷彿とさせられるし、しかも色使いがファンシー。
このインスピレーションの暴走は面をくらわされる。

そして酔い潰れた2人は、明くる日の朝、なぜか木の上で眠っていたのだ。
ここでティモシーはダンボが”飛べる”ことに気づく。
そこで出てくるのがカラスたちだ。

「飛べるわけないだろ」
と彼らは口々にダンボを馬鹿にする。
ティモシーはそんなカラスたちに、ダンボの”これまで”の説明をすると、彼らはダンボが飛べるように背中を押してくれるようになるのだ。

ここでダンボの仲間は「ネズミ」「カラス」だ。
正直なところ「現実」では、あまり好かれているとは言い難い動物だと言える。
そんな動物がダンボを支えるというのも、この物語の特徴だ。

隅に追いやられた、「マイノリティー/少数派」の痛み・境遇を最も理解できるのは、やはり「マイノリティー」なのだ。
同じ弱さを知るものこそが、真の意味で他人の「弱さ」「悲しみ」を共有することができるのだ。
そのことをダンボの仲間になる動物たちを通じて描いていると言える。

足枷が「翼」になる

そんな「身体的特徴」に苦しめられていたダンボだが、最後はサーカスで象が飛ぶということを証明して見せて「スター」になり喝采を浴びる。

今まで他人に「嘲笑」「バカにされる」対象だった巨大な耳が「翼」に変わるのだ。
この物語で「身体的特徴」である「耳」は「治すべきもの」ではない。
むしろそれは「武器になる」のだ。
この耳が「ダンボをダンボたらしめる」
そして、それが彼の「他人にはない”誇れるもの”なのだ」

最後には無事に牢から解放された母親と共にダンボは、立派な専用列車に乗ってサーカスの巡業の旅を続けることになる。

そして「苦しめられた”違い”」を活かして、大活躍をするのだろう。

そこには「違いを恥じていた」ダンボはいない。
その「違いを誇る」ダンボがいるのだ。

まとめ

この作品は「身体的特徴」を「差別」される象の物語だ。
特に序盤を人間に置き換えて再現されたら、とても見ていられないほど「辛い」展開になることは間違いない。

そんな「差別される」ダンボを支えるのは、あまり「好意的」には接しにくい動物「ネズミ」であり「カラス」なのだ。
彼らもどちらかというと、差別されがちな存在だ。

そんな彼がダンボの仲間になるのには理由がある。
それは、「弱さ」「痛み」を受けたことのあるものは、他人の「痛み」にも寄り添うことができる体。
そしてこの物語においてダンボを苦しめる「身体的特徴」は「治療」すべきものとしては描かれない。
ダンボはこの耳がある。だからこそ他の象とは違うのだ。

最後には「違い」を「誇れる」ようになったダンボ。

人と違うことは決して「恥じることではない」
そんなエールのようなメッセージに満ちた作品だ。

もちろん、見ていてサーカスで搾取される動物たちが可哀想にも見えたりもする。
特に象はかなり劣悪な労働も強いられている。
強いていうなら、サーカスを飛び出して、より良い環境でダンボが活躍するラストが良かったのかもしれないと言う気持ちもある。

ただ、やはり一度は差別をされ、すみに追いやられたダンボが、同じ場所で、今度はスターになる。
そういうカタルシスもあるので、ここはやっぱりこのラストが相応しいのかもしれない。

なんにせよ、最後には「自分を苦しめたものが、自分を輝かせる武器」になったダンボ。
その姿を通じて作品はこういうメッセージを我々に投げかけているのだ。−違いを恥じるな、違いを誇れ− と。


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