『バンビ』−世界は”美しく” ”残酷”−【ディズニー長編アニメ総チェック】

さて今日も「ディズニー総チェック」
取り上げるのは、恐らく世界で最も有名な「鹿」の作品『バンビ』です。



バンビについて

基本データ

  • 公開 1942年

  • 監督 デイヴィッド・ハンド

  • 脚本 ラリー・モーリー/ジョージ・スターリング/メルヴィン・ショウカール・フォールバーグ/チャック・カウチ/ラルフ・ライト
    パース・ピアース

  • 声の出演 ボビー・スチュアート/スターリング・ホロウェイ ほか

あらすじ

緑の豊かな春の森に、1頭の雄の子鹿が生まれました。
フクロウや、うさぎのとんすけなど、森の住人たちは、森の王子様の誕生に大はしゃぎ。
バンビと名付けられた子鹿は一躍森の人気者になりました。
母の愛を一心に受け、バンビはすくすく育っていきます。
いたずらっ子のとんすけやスカンクのフラワーと仲良しになったり、いとこのファリーンにドキドキして逃げ惑ったり。

そんなバンビを、父である森の王様が遠くで温かく見守っています。
しかし、悲しいことに、心ないハンターが森にやってくる冬の狩猟シーズンに、母鹿がバンビを庇うようにして命を落としてしまうのでした。
嘆き悲しみ、母を探すバンビ・・・。

再び森に春がやってきて、成長したバンビは美しくなったファリーンと恋におちます。
秋になり、心無い人間の不始末で起きた山火事に傷つきながらも九死に一生を得るバンビ。
3度目の春、とんすけもフラワーも子供ができました。
もちろんバンビとファリーンにも。
数々の出会いと別れで心身共に立派に成長したバンビは遂に森の新しい王になるのでした。

公式サイトより引用

これは「知る」物語

世界を知るバンビ

今作品は「知る」ということに重きをおいた作品ではないだろうか?
この物語は、バンビが誕生するシーンから始まる。
王子の誕生をウサギや、鳥、様々な動物が祝福をし、そして母から愛を受ける。

そんな幼く、まだ何も知らないバンビが、世界を知る。
その過程こそ、この映画の見所ではないだろうか?

バンビが世界に溢れている「様々なもの」を知る過程。
そこでは、我々は当たり前だが、「この世は”名前”で満ちている」ということに気づかされる。

目に映る全てのものが「未知」であり、そしてそれを知ることで、少しずつ自分たちの世界の構造を知るバンビ。
そしてそれと同時に、その様々な「未知」を「表現」するための「言葉」を覚える。

これは「未知」のものを「知る」という、生きていく上で続く「学び」を描いているのだ。

それは「美しい」面だけではない。

この作品はしっかりと「世界の残酷さ」を描いている。

むしろ、この「残酷な面」も含めて、それこそが我々の生きている世界なのだということを「知る」物語なのだとも言える。

牙を剝く「残酷さ」

この作品は「世界の残酷さ・恐ろしさ」も描いている。

まずは「恐ろしさ」と言う観点から見ていこう。
例えば、バンビが初めての雨を知る場面、ここでは「雨音」が「音階」を奏でる。

バンビにとっては空から落ちる「水」は、「音」を奏でる楽器のようにも見えているのだ。
世界に満ちている「音」に耳を傾け、雨粒の流れを目にする。

それは「川」の成り立ちや、「水」が世界を循環することを、「知る」ということだ。

だが「雨」は美しいだけではない。
轟く雷鳴にバンビはすっかり恐れて母のお腹に思わず蹲る。

雷鳴を知らないバンビには、自分の耳をおおっても、鳴り響く轟音は恐ろしいものなのだ。

早く過ぎ去って欲しい恐ろしい事態。
だが雷鳴が終わった後の静かな空、そして濡れた森の「深緑」に、やはり世界の「美しさ」を見出すことになる。

次に「残酷さ」と言う観点を見たいと思う。
最もこの作品で胸を引き裂かれそうになるのは、母の死だ。

このシーンに至るまで、まず冬の楽しさを散々描きながら、同時に厳しさを描く。
餌も満足に食べられないという、凍てつく世界に苦しみながら、ようやく見つけた「若草」
無心で食べる姿に、「よかったね」と思わずにはいられないが、この作品は、やはり「良い」ことがあれば「悪い」が起こる。
常に世界の二面性をどこまでも描くことに余念がないのだ。
バンビはここで最も愛する存在母親を人間に殺される。

ここはあまりにも可哀想なシーンなのだが、
ここにうまさが凝縮されているのではないか?

それは詳細には描かれない人間描写だ。

この母の死の場面では、突然の銃声で、その死を予見させられる。

ここでは撃った人間の存在は描かれない。
それが2つの意味を生み出している。

ひとつ目は、動物にとっては「人間」という存在は、どうしようもない「厄災」であるという意味だ。
ただ、なす術なく突然「命を奪いに来る人間」
ここで、その人間を描写しないことで、むしろ動物にとって、人間という存在が「理由なく命を奪いに来る」いわば「災い」なのだという視点が強まるのだ。
つまり我々が、バンビたちに感情移入を深くさせられる要因にもなっているのだ。

ふたつ目に、「バンビ」が人間を知らない。という意味だ。
バンビはまだ「人間」の恐ろしさを知らない。
だが、母の死を見て、人間の恐ろしさ。つまり世界の残酷さを知るのだ。「人間」という存在が突然「命を奪いに来る」ことを知らない、だから人間が見えなかったのだ。(無知が故とも言える)

しかし終盤はそのことを知っていたので「人間(的なもの)」がバンビの目には見えるようになるのだ。
そして終盤はバンビは人間に立ち向かうことになる。

それでも「世界は美しい」

母の死を乗り越え、春を迎えすっかりたくましくなったバンビ。
(ちなみに『バンビ2』では、本作では描かれなかった空白の時間が描かれている)

ここで「青年」になったバンビは「恋を知る」ことになる。

子供の頃からの友達ウサギの「とんすけ」
スカンクの「フラワー」と再開したバンビは、「恋をすると”浮かれ頭”になる」と言われて、自分はそうはならないと、3人で硬く誓い合う。

なんというか、あまりにもボンクラな約束をしてしまうのだが、そこからリズミカルに、3人は恋に落ちてしまう。

特にフラワーが最初に女の子とイチャついた際に「だらしない」とでも言わんばかりの2人だったが、その2人もテンポよく「恋をする」
ここが本当にリズミカルなのが、面白い。

そこからバンビはファリーンに恋をするのだが、彼女を巡ってのオス鹿との決闘。
このシーンはここまで「柔らかな質感」だったバンビが、「筋肉質」に描かれ「野性味」たっぷりに描かれる。

そしてそれに勝利したバンビは、恋を成就させることになる。
だが、またしてもバンビたちを「厄災」が襲う。

何度も言うが、この作品は「世界の美しさ」を描きながら、同時に「残酷さ」を描くのだ。
それは、実際の世界の構造の本質を描いていることに、他ならない。

どれだけ「幸せ」でも、突然「命」を奪われる世界。
世界は我々に、否応なく牙を向くこともある。
そのことを描いているのだ。

これは個人的な考えだが、このメッセージの裏側には、制作中に「第二次世界大戦」の足音がしていたからなのではないか?

彼らの住むアメリカとて、突然何者かに襲われるのかもしれない。
その恐怖があったのではないか?
ちなみにウォルトは、戦争中は、戦意高揚のプロパガンダ映画を多く制作していた。
そこには彼の中にも「いつか襲われるかもしれない?」という恐怖心もあったのかもしれない。

そして紡がれる命

またしても襲来する人間。

ここでバンビは「テント」が目にする。
これは人間と言う災いをバンビが知ったからだ。

ファリーンが危ない。
人間の怖さを知るバンビは、はぐれたファリーンを探す。

ここでは他の動物たちも、容赦無く狩られていく。
ただやり過ごすしかない、どうしようもない「災い」

だがバンビは必死に立ち向かう。
迫りくる猟犬との戦い、そしてファリーン救出など、この一連のシーンは、『白雪姫』から『ダンボ』には見られなかったスペクタクルシーンになっている。

そして人間の火の不始末から、森が焼け、故郷を失うバンビたち。
生きたまま再会を喜ぶ動物たちだが、そこには感動の他にも喪失の気持ちも含まれているのだ。

だが、最後にはそれでも自然の復活を描いている今作。
そしてまた冒頭の場面に戻るように、今度はバンビとファリーンの間に双子が生まれる。

世界は残酷だ、だけど命は紡がれていく。
その「命の継承」「自然の力強さ」の美しさを描いて今作は幕を下ろす。

最大の課題は「動物」が主役

この作品は森に住む「動物たち」が主役の作品だ。

後年の歴史を振り返ると「動物」を主役にした作品をディズニは多く作るのだが、この作品はその最初の一歩と言える。

実は『バンビ』は『白雪姫』のあと、すぐに制作を開始され、『ピノキオ』『ファンタジア』とほぼ同時で進行していた。

しかしこの作品が上映されるのは、これらの作品の次に企画・制作された『ダンボ』の後と予定よりも大幅に遅れた。

それはどうしてか?
その答えは「動物が主役」という点だ。

この作品の制作中、製作陣はある悩みを抱えていた。
それは「動物を本物らしく描くこと」と「アニメらしさ」の両立をいかにして成し遂げるか? という点だ。

ちなみに、「動物たち」が言葉を用いる世界観で物語をかたる。
この題材・テーマはそもそも「アニメ」でしかできないことだ。

しかし、『バンビ』という作品の持つ「物語の根幹」である「自然の美しさ」を表現するには、本物らしさも必要なのだ。

そこで実際に小鹿を飼育・観察。
他の動物も観察をして、リアルな表現を学んでいった作り手たち。

しかし同時に、ただ動物をリアルに描くだけでは、作品が魅力的にならない、つまりアニメ的にならない。

これは後年制作された実写版の『ライオンキング』を見れば明らかだ。
写実的な動物の描写、だけど物語展開は動物が喋る世界観。
この絶妙なアンバランス感に面食らった人も多かったのではないか。

さて、そんな課題をクリアするために、ウォルトは各キャラクターにクセやお茶目さを加えることにした。

とんすけの地面を足で鳴らすクセ。
照れ屋なフラワーの、ぽわぽわした表情。
そして生まれたてのバンビが世界に好奇心を抱く一連のシーン。
うまく立てずに絡まる足、花の匂いをかいでくしゃみをしたり、至る所に、アニメならではの表現が散りばめられている。

でも動物たちは、デフォルメはされているが、きちんとリアルに描かれる。(その最たる存在がバンビの両親だ)
このバランス感で描かれること、それ自体が「なんともディズニー作品らしい」味わいでもあるのだ。

前述したが、これ以降「動物モノ」というのはディズニーの十八番になっていくのだが、その礎に『バンビ』はなった。
それは間違いないと言える。

予算という概念は・・・ない。

このようにアニメーターへの教育や、前例なき挑戦をすると、当然製作費はどんどんかさんでいく。

それは当然だ。

初めてのことに、一体どれほどの「お金」がかかるのか?
などという問いかけには答えられる者はいないだろう。
ウォルトたちは「長篇アニメという試みに、新しい技術・素材を開発しながら挑戦していた」だから、そもそも予算という概念がなかった。

結果『ピノキオ』『ファンタジア』『バンビ』の製作費で『白雪姫』で稼いだ富を吹っ飛ばしてしまい、流石にウォルトもヘコんだそうな。
だが、この挑戦がなければ、今の「アニメ」は存在しなかったのかもしれない。
途方もない挑戦が「アニメ」の技術を発展させていくことになった。
改めて「アニメ黎明期」においてディズニーの果たした役割というものの大きさを、再認識させられた。

まとめ

「世界は美しい」でも「残酷である」

そのことを繰り返し描いている『バンビ』

母の死、森の喪失。
いくつもの苦渋を乗り越えて、それでも最後には「命の継承」という、生きること最大の喜びを描き幕を下ろす。

その物語を彩るのは、疑いようもないクオリティで描かれた森の神々しさであり、そこに住む動物たちの存在感だ。

改めて特筆すべきはバンビが、世界を知るプロセスで、「世界の未知を知ることの喜び」に溢れている。

当たり前だが、世界には「名前が満ちている」「音も満ちている」
そのことを知るのは、「大きな喜び」なのだ。

だが、同時に「残酷さも知る」

当たり前だが、世界は「美しくも・残酷」なのだ。
それでも「生きる」「命を繋ぐ」そのことに意味があるのだ。

最後に生まれたバンビの双子。
彼らもまた、「喜び・悲しみ」を知る生涯を生きることになるだろう。
だが、そんな彼らもきっと、また命をつないでいく。
それは「美しさ」でもあり「残酷」なことでもあるのだ。

そして、アニメの歴史においても、今作品は、やはり重要な作品である。「動物モノ」というジャンルの形をここで確立させたからこそ、後にディズニーは魅力的な「作品」を多く生み出すことになるのだ。

ある意味で、これも「継承」だと言える。
ウォルトたちの生み出した「魂」が、今にも継承されている。
その原点『バンビ』はこれまた、やはり歴史的にも大きな意味を持つ作品なのだと言える。

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