できると役割を探す旅

帰り道、腑に落ちたことがあった。
最近、集中できていないのは、不安を感じているからなんだと気がついた。
なにか特定の技術の持っているかどうか、人に認められるかどうか、役割があるかどうか、について気をとられ、その不安が、日々の意識の中にあらわれて、気が散っていたのだ。

例えば、売上がこれくらい上がりましたと、数字で言うことはできる。これを実施しました、とも。
でも、その過程において、実際、ぼくはなにをしたのか、なにができるようになったのか、どう貢献できたのか、と考えると、それがないのではないかと思うのだ。土台がないように感じてしまう。

そうすると、手当たり次第、なにか技術や技能を手に入れたくなる。目立つことや、もてはやされることばかりに目がいく。流行りに安易にのっかる。できる人を妬む。あの人に認められるが、目的になる。目の前のことに集中できなくなる。
拠り所がないから、どうでもいいようなアイデアや、些細な自分の考えに固執する。そして、「できる」を装う。
拠り所を否定されると、まるで自分の存在がなくなるような気がして、心が尖る。

しばらくして、その自分が立っている土台は、取るに足らないものだと気がついて、虚しくなる。その繰り返しだ。

なにかできるようにならないと、役割がなくなる。役割がないと、存在している価値がなくなってしまう。そんな不安が、毎日、毎時間、不意に頭をよぎる。

できるを増やしたい。そうでないと存在価値がなくなる。自分の未来がなくなってしまう。


そこまで考えたとき、自分の未来について目が向いた。ぼくは、なにを目指しているだろう? その技術って、ほんとうに欲しいものなのだろうか?そんな思いが浮かんできた。

ふっと、なにか憑き物が落ちた感覚になった。

不安が心を乱していた。
「できる」があると不安が取り除かれると半ば強迫観念のようなものがあった。
「できる」が、自分自身そのものなのではないかと思い込んでいた。


ぼくに必要なのは、技術や知識ではなく、
どんなことを求めているのか? なにを達成したいのか? といった、ぼく自身の欲望を見つけることなのではないか。
大きな方向性そのものが、自分自身の土台となり、自信につながるのではないか。
それが、結果的に、できるにつながるのではないか。

雨の降る中、走りながら、そんなことを思った。

#日記

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