女子生徒が生み出した社会美–修学旅行生のディナー前のできごと

1.     体感記述


私はホテルで宴会のサービスをするアルバイトをしている。基本的に披露宴のサービスを担当しているがこの日は少し違った。三重県から中学生が修学旅行生として弊ホテルに訪れており、そのディナーのサービスを担当することになっていた。18時過ぎ、ディナーを食べに続々と中学生が会場に入ってきた。生徒たちは灰色のズボン、スカートにポロシャツと懐かしさや親しみを感じる装いだった。会場に入った瞬間に「すごーい」や「いい匂いー」と素直な反応をする生徒たち。思い返せば、純白な彼らの姿を見て、私は徐々に彼らの虜になっていった。それから自然と生徒たちに意識が向かっていた自覚は確かにある。全員が揃うには少々の時間がかかった。生徒たちは談笑をしながら各々の時間を過ごした。生徒が集まると、学年に一人はいる怖い感じの先生(以下、男性教員とする)がマイクを取った。男性教員の発声と同時に会場がたちまち静かになった。男性教員は、コロナウイルスを考慮した注意や料理を皿に盛る際の注意などについての説明をテンポよく行う。会場の真ん中にはズラっと料理が並べられている。また会場の後方ではシェフが肉を焼いておりパチパチ、ジュ〜といった音が会場を誘惑している。男性教員がボソッと「どっちから行こうか」と独り言のように言った。ビュッフェスタイルのため、1組から取りに行くのか4組から取りに行くのか決めかねていたのだ。そのような一抹の迷いを隠すかのように「1組さんから行きましょうか」と大きな声でいった。するとまもなく4組女子の方から「ずるいー」「えー」「またー」と黄色い声が聞こえてきた。男性教員の目は緩み、自信が無くなったようにも見える。男性教員はおそるおそる声を上げた彼女らの方にゆっくりと目を向ける。男性教員は彼女らに「4組さんは(料理から)近いから我慢しなさい」と言う。勘弁してくれそんな意が込められているように私は感じた。しかし、一人の女子生徒は「えーいつもやん」と、男性教員に怯まずにたたみかける。すると男性教員は「じゃあ、じゃんけんで勝ったら4組さんから行きましょうか」との提案をした。この言葉にはどこか潔さが現れているようにも感じ取られる。「出さんが負けよ、最初はグー、じゃけんほい」と男性教員の発声でじゃんけんが始まった。男性教員は私の前に立っており、グーを出しているのがすぐにわかった。彼女が何を出したのかとても気になった。このようなゲストの私的なやりとりに関しては、サービス員としては儀礼的無関心を実践すべきである。しかし、ひどくじゃんけんの行方が気になった私は彼女に目をやらずにはいられなかった。そっと右方に目を向けた。なんと3人の女子生徒がじゃんけんに参加していた。2人はグー、1人はパーを出していた。最初はなぜ3人も参加したのか私には理解できなかった。何かのローカルルールのような彼女らと男性教員との間で共有された取り決めがあったのかな、などと千思万考した。しかし、それは単に彼女らの狡猾な行為に過ぎなかった。男性教員は「3人も出してるやんか。ずるいわー」と優しく言い返した。すると、パーを出した女子生徒はすかさず手を斜めに上げ「勝ちました!」と会場に響き渡る声量で力強く応答した。それに対して男性教員は表情を緩めながら「なら4組さんから行きましょうか…(!)」と苦笑い気味に返答した。この瞬間、4組は最初に料理を取りに行くことになった。すると、会場からは嵐のような拍手が沸き起こった。もともとは先に取りに行くはずの1組は最後になってしまったのだが、彼らもその嵐の中心にいた。私はホテルスタッフとしての役割を演じるために手こそ前に重ねたままにしていたものの、心の中では拍手をしていた。私が心の中で拍手をしたのも、目下で繰り広げられた女子生徒と男性教員の掛け合いに満ち足りた気分になったからだ。社会美学の立場で言えば、彼らのコミュニケーションによる相互作用に対して感性的快感を覚えたということになる。双方のやりとりは決して安定感のある心地よいものではなかった。いつ破綻するのか危うさを常に孕んだものだった。破綻する例としては、女子生徒の反発に対して男性教員が権力を行使して女子生徒を制御しようとしたり、感情的な発言をしたり、また女子生徒があまりにも限度をわきまえない要求したりするなどの可能性が考えられる。しかし、そのような覚束無い状況のなかで拍手に決着したこの社会空間からは私自身感じるものがあった。
この体験をした直後に私は「この体験を保存するためにも言語化したい」との衝動に駆られた。そのためその場ですぐに、あたかも業務上のメモをとっている雰囲気を出しつつこの体験について簡単なメモを残した。そして、帰りの電車の中でそれらに肉付けをしていくかのように加筆して携帯のメモ機能を使って保存した。

2.     社会学的記述


前提としてなぜ勤務中という実利的活動の中で私は社会美を感じ取ることができたのだろうか。ホテルでは100人を超えるお客様にサービスをすることがある。そのようなときに、ゲストひとりひとりを強く意識すると心理的に大きなストレスを感じてしまうために、個人に意識を集中させてはいけないと言われている。つまり、お客様を個別に複雑化して捉えるのではなく記号として捉えろということであると私は理解している。これらの考え方は合理的であり、普段は実践している。しかし今回の修学旅行生に関しては、お客様とのラベリングする前に、対象に対して純粋な好奇心が先立っていた。どのようなときに社会空間の雰囲気や感性的質を感じとるのかといったことを考えるうえで、自分中心的知覚と対象中心的知覚というふたつの知覚スキームが有効になる。前者は対象を実際的、実利的に認識することであり、後者は対象を利害関心から離れた好奇心に従って知覚することである。また、作田は対象中心的知覚の際には純粋な好奇心をもってその対象そのものへ近接するオープンな態度が必要としている。普段はお客様をラベリングし記号情報として認識しているために、自分中心的知覚を実践しているといえる。他方、修学旅行生に対してはて自身の好奇心がそそられる節があり、客体を生きた姿として認識しているために対象中心的知覚を実践していた。従って、勤務中でありながらも社会美を感じられたのだと考えられる。
女子生徒の利己的な発言が呼び水になり、結果的に共歓の美などを含む感性的快感を感じられる社会状況が生み出された。本章では、社会美が生まれた要因について社会学的に考察することに試行したい。具体的には、「すべての歴史的現実の具体的な要素である諸個人のうちに、衝動、関心、目的、傾向、心理の状態や運動として存在し、それとの関係において他の人々への作用や他の人々の作用の受容が生ずるもの—私はそれを社会化の内容と呼ぶ」(清水 1979:68)としたときに、今回の社会化の内容について時系列順に整理していく。
まず初めに、4組の女子生徒は1組から料理を取りに行くことに対して反発した。教師と生徒という関係性から教師が生徒に対して権力を行使し主張を却下することはできた。しかし、男性教員は権力を行使するのではなく対話を試みた。一方的な要請ではなく相互コミュニケーションへと展開としたのだ。これらは彼女の要望がエゴイスティックなものだという一義的な批判的認識をこの社会から払拭することにつながった。加えて、男性教員は機転を利かせじゃんけんという遊戯に発展させることで事態の収束を試みた。結果をじゃんけんというメディアを媒介することで、運命を個人的な判断に任せるのではなく、社会的なものにしたと言えるのではないか。また、こうした遊戯は緩やかではあるが社会を一つの方向に向かわせることに寄与したと考えられる。第二に、この社会ではじゃんけんのルールを度外視した行為が容認されたということである。道徳的規範からすると、女子生徒が3人もじゃんけんに参加したことは決して許されるのものではない。ただ、この逸脱行動が一時的に認められたことがこの社会を特異で魅力的なものにした。最終的には、拍手という行為を通じて一つの社会としてはっきりとした輪郭を獲得した。修学旅行に来ていた生徒とホテルスタッフである私、決して交わることのない、ある意味で全く別の社会を生きていたみんなと私が彼女らの思いもよらない行動の帰結として生み出された拍手によって、一つの社会に同化し「わたしたち」となった。局外者である私も当事者になったのだ。
本章の冒頭で、自分中心的知覚と対象中心的知覚について述べた。今回このようにして社会美を感じ取れたのも、ひとえに対象中心的知覚によって社会を捉えていたからである。しかし、実際的な問題として私たちが生活する中で時間という概念はとりわけ重要であるとされている。事実、時間効率をあげるためにさまざまな福祉システムや経済システムなどが生み出された。これらのシステムは、一方では私たちの豊かにしたと言えるかもしれないが、貧しい状況をつくりだしたのも確かである。昨今、合理化が至上命題とされ個と個の相互作用たるものが形骸化している印象を受ける。コンビニの接客ひとつ考えてみても、機械的なコミュニケーションをする人も多い。また、若者の恋愛や結婚離れもシステムがもたらした弊害のひとつだろう。目的を持たず散歩をしたり、無心になって自然を眺めたり、タバコを吸ってみたり、ただ友人としゃべったり。社会には無駄と言われるものも多くあるが、その無駄の中から何らかの豊かさを見出していきたい。

3.     反省とこれから


社会美学に関して興味関心を持ち学問としての可能性を認識していたものの、いざ社会美を記述するとなるとさまざまな困難に直面した。社会状況を過不足なく記述するためには豊富なボキャブラリーが必要であるし、体感した社会美を生きたまま記述するには独自の明快な表現が求められる。宮原は「ほんの入り口の自由な体験記であっても、記述対象の意識化、その商店の絞り方など、「社会美のつづり方」に関しての考察がかかせなくなってくる」(宮原 2016:122)としている。また、社会美のつづり方や社会美の考察方法についてもいくつかの原則があることにも言及している。例として、社会美を記述する際の感じた快感についても生理的快感でも概念的快感でもなく、感性的快感であるということ。個を評価するのではなく、個と個の相互作用を評価する必要があるということなどがあげられる。快感に関してだが、生理的快感というものに対する理解は比較的容易だった。しかし、観念的快感と感性的快感についてはやや似通った部分もあり、エピソードを選定する際には「これは観念的快なのか感性的快なのか」と何度も反芻し確認することに努めた。「すぐれた社会美記述は散文詩に近づくことがある。その場合、社会状況や社会情景に記述が十分に楽しく、味わい深く、興味深いものになる」(宮原 2016:126)と散文形式での記述が好ましいとされているが、散文形式での記述に関しては慣れないために当初は抵抗があった。すぐれた社会美記述はそれらの原則が緻密に守られておりそれらをいくつか読む中で自身との差を目の当たりにした。社会美記述をより良いものにするためには、人と人の関わりの中から社会美を見出す積極的な姿勢、そしてその体験を一定の原則に従って記述する必要がある。今後はこれらの方法論を肝に銘じながら多くの社会と接点を持ち感性を豊かにしていきたい。(4681字)

参考文献
清水幾太郎, 1979, 『社会の根本問題』岩波文庫.
宮原浩二郎・藤阪新吾, 2012, 『社会美学への招待―感性による社会探求』ミネルヴァ書房.
宮原浩二郎, 2010, 「社会美学のコンセプション(4)」:社会的感覚の社会性について」『関西学院大学社会学部紀要』(109):51-64.
宮原浩二郎, 2016, 「〈研究ノート〉社会美のつづり方―授業実践からの報告(1)」『関西学院大学社会学部紀要』(112):121-137.
宮原浩二郎, 2017, 「〈研究ノート〉社会空間の感性的質について」『関西学院大学社会学部紀要』(126):81-89.

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