世界と自分と平穏と不穏



世界も平穏で、自分も平穏であれたら、とてもいいなと思います。


でも、そうでない時に、どんな風に過ごせばいいのか…


今世界で起きている悲しい出来事に対して、自分に何ができるか…

考えているだけじゃなくて、何かアウトプットをしようと思い、書いてみることにしました。


まずは、『身近な世界と自分』について書いてみます。スケールは違いますが、共通することもあると思うからです。


患者さんのしんどさに動揺する自分


精神科で働いている中で、「死にたい」と思っておられる方に出会うことは、珍しいことではありません。

「死にたい」という言葉の中には、いろいろな感情が含まれていると感じます。

生きていたくない、楽になりたい、考えたくない、将来が不安、未来に希望がない、この先やっていく自信がない、どうしたらいいかわからない、とにかく今がしんどい、消えたい、死ぬことで誰かを楽にしてあげたい、死ぬことで誰かを苦しめたい、死んだ方がいいんじゃないか、生きたい、など、他にもたくさんあると思います。


その気持ちが、どのくらい行動に反映されているかも、人それぞれです。

ふと思うことがある、という人もいれば、実際に死ぬ方法について調べている人もいますし、計画を立てていて教えてくれる人もいます。



私がまだ新人だった頃(新人が就職してから何年以内のことを言うのかわかりませんが、若手ではあった頃)、「◯月◯日に死ぬ!」という計画を詳細に教えてくれた方がいました。

自分の担当している方に、そこまで具体的に伝えられるのは初めてだったので、私はとても動揺しました。

どんな風に動揺したのかを説明するのは、その方と自分の間にある葛藤や感情、経験などを書くことにもなるので、この場でそれをするのは難しいのですが、とにかく心穏やかではない毎日でした。



一方で、その方の主治医はいろんなことを感じ考えながらもとても穏やかな方で、この計画に対しても心配をしながらも、私のように大慌てをすることはありませんでした。

これまでにたくさんそういう場面を経験されてきたドクターと、はじめて体験する自分を比べて落ち込むのも変な話だと今なら思うのですが、当時は、「なぜ自分は動揺してしまうのか。どしっと構えていることができないのか」と、自分のことがとても情けなく思えていました。



ある日、「動揺せずに落ち着いていたいのに、どうしてもできなくて、これはその人のためにはならないのではないか」という自分の悩みについて、ドクターに相談をしました。

すると、ドクターは、「落ち着いている人が落ち着いているんだったらいいけど、動揺する人が無理矢理落ち着こうとするのは不自然だよ。人間、不自然がいちばんよくないと思うから、動揺するんだったら、動揺しているしかないんじゃない」と言いました。

また、「自分は動揺するだけのエネルギーが足りないだけかもしれない。もう慣れてしまっていけないよねぇ。その人の発言や気持ちに、動揺する人がいる、ということが、その人にとっては嬉しいことかもしれない。しっかり動揺してあげて。まぁ、しんどいかもしれないけど!」とも伝えてくれました。



私は、その言葉にとても救われ、その言葉を支えに、動揺しながらも自分なりにその方と向き合い、かかわり続けることができた、ということがありました。



あと2つ、経験談が続きます。



家族のケンカと赤ちゃんの笑顔


次男が生まれたばかりの時、世の中はコロナのことで大変でした。(それは今も変わらないかもしれません)

その頃の出来事で、私の中で印象深く残っている出来事があります。


ある日、私と夫と長男は、それぞれで腹を立てていて、ギスギスしていたことがありました。(なんでそうなったかは忘れてしまいました)

私も、空気を変えて仲直りをしないと、と思いつつ、すぐには気がおさまらず、不穏の中にいました。



その時、抱っこしていた次男が、「んく〜、うく〜」とかわいい声を出しながら、ふにゃっと笑ったのです。

私もそんな次男につられて、思わず笑顔になりました。すると、夫と長男も寄ってきて、かわいいねぇとなり、いつの間にか穏やかな空気になっていました。

『こんなにみんながギスギスしてるときに、こんなに幸せそうに笑いかけてくれるなんて…』

赤ちゃんの無邪気な笑顔は、文字通り、邪気が無く、周りの邪気まで無効にして、みんなを幸せにする力があるなぁと、とても感じます。

だって、次男よりも大きな3人が不穏だったのに、まだ生まれたばかりの次男が笑うことで空気が変わるって、とってもすごいことです。


そして、赤ちゃんの笑顔の幸せパワーの中にいながら、ふと、『世の中がどんなに大変なことになっていても、穏やかに笑って過ごそう』と思ったのでした。


赤ちゃんの無垢な笑顔には敵わないし、私が笑って過ごすことで、何がとか、どんな風にとかはわからないのですが、もしかしたら何かが、ほんの少しでも軽く、穏やかになればいいなと、そう思えたのです。



でも、私も30年以上生きているので、何も知らない赤ちゃんのようにただ笑うということが、できないこともあります。

なのでせめて、子どもたち、赤ちゃんたちが、心から笑って過ごせる毎日を、守っていきたいと思うのです。

そのためには、やっぱり自分が穏やかで笑って過ごすことが大切なんだろうな、とも…



受験直前の焦りと家族の笑い声


しかし、自分が大変な時に、誰かの笑顔に傷つくこともあります。

高校3年生のお正月休み、私は2階の自分の部屋で、近づいてくる試験の日に向けて、勉強をしていました。

すると、1階から、他の家族がTVの特番を見て大笑いをしている声が聞こえてきたのです…


私は、なんだか、寂しくて、悔しくて、腹立たしくて、憎たらしくて、いろんなきもちでぐちゃぐちゃになって、机に伏して泣いてしまいました。


その日の夕ご飯の時、私はイライラとしていたと思います。


家族が笑っていることは、決して悪いことじゃないのに、なんでか責めたくなるような気持ちになって、そうやって腹を立ててしまう自分も情けなくて…


自分が辛く苦しい時、世の中や他者が幸せそうに見えて、落ち着かない気持ちになることは、他にもありました。


妊娠中、つわりで寝たきりの時、つわりがなく元気に働ける妊婦さんや、キラキラマタニティライフを送っている幸せそうな妊婦さんのことが、とても羨ましく、なぜ自分はそうでないのかと悲しくなりました。

被災をした時には、隣の町にいつもと変わらぬ日常があることに、絶望するような恨めしいような、何とも言えない気持ちになりました。



でも、それらを乗り越えた今感じるのは、自分が苦しい時にも、他の誰かが日常を大切に続けてくれていたから、自分もその日常の中に戻っていくことができた、ということです。


自分が受験で大変な時期や、それを乗り越えた後も、自分以外の家族が大変だったら…

自分がつわりで寝たきりの時に、自分以外の人も苦しみの中にいて、仕事も家庭も、大袈裟だけど経済とか世の中が回っていなかったら…

自分が被災をした時に、日本中、世界中も絶望の中にいたら…


誰かが日常を送ってくれているから、自分は絶望の中にいることができたのだとも思います。

その誰かは、家族かもしれないし、友達や同僚かもしれないけど、言ってしまえば世界中の人みんな、という感覚もあります。





最後に、まとめのようなものです。

戦争と自分


戦争のように、大きな悲しい出来事が起こっている時、自分の中にも動揺が起こります。

以前の私であれば、『戦争で苦しんでいる人もいるのに、こんなことをしていてもいいのだろうか』と、何をするのも心から楽しめない気持ちで毎日を過ごしていたかもしれません。


しかし、自分にも、守りたい笑顔があります。

子どもたちのために、私は自分の心を穏やかにして、毎日を楽しく笑顔で暮らしたいと、今は思ってそうしています。

これは、子どもたちの『ために』ではなく、『おかげで』かもしれません。


そして、今苦しんでいる人たちの未来が、明るくて幸せなものであるために、私は、自分の日常を大切に過ごしていきたいと思います。

これは、『苦しんでいる人』のためにということよりも、『みんな』という意識かもしれませんし、『ために』というのも、当てはまらないかもしれません。


うまく言えないのですが、戦争に対して動揺する気持ちも、自分の幸せを守ることも、どちらも尊いもので、いいとか悪いとかなく、今、それぞれがどんな気持ちになっていても、それは、まわりまわって世界を救っているのではないか、救うというのは大袈裟かもしれないけど、ためになってるのではないか、う〜ん、、それで大丈夫なんじゃないか、と思っている、ということが書きたくなったので書いてみました。



最後まで読んでいただき、ありがとうございました。



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