(劇評)震災を機に見つけた、転がり続ける生き方

烏丸ストロークロック『まほろばの景』の劇評です。

2018年3月2日(金)19:00 東京芸術劇場 シアターイースト

タイトルの「まほろば」には「素晴らしい場所、住みやすい場所、世界の中心」といった意味がある。烏丸ストロークロック『まほろばの景』(作・演出:柳沼昭徳)では、東日本大震災で家を失った男がそれまで縛られていた何物かから解放され、自由にまるで糸の切れた凧のように(というと被災者の方に失礼かもしれないが)転がり続けていく姿を描いた。彼が働いていた福祉施設からいなくなった知的障害児・和義を探し求めて全国を行脚しながら、時には現代の山伏たちによる宗教団体とも出会って交流を深め、ついには自分の居場所を発見していく。3.11以来、どこにいても居心地が悪くて尻が据わらない感覚に悩まされていたのは私だけではなかったと少し嬉しくなった。主人公の男が送る流転の生活は、単に不幸な被災者という言葉だけでは片付けられない。あの震災以降、多かれ少なかれ誰もが一ヶ所にとどまり切れない漂泊の感覚を味わっているのではないだろうか。

男は仙台で被災した。両親や二人の兄ら家族は無事だったが、それまで住んでいた家はほとんど井戸の枠しか残らなかった。その瓦礫で埋まった井戸の中をのぞき込んだ老父は「夢のようだ」と呟いた。かつてはその井戸で名物の「ずんだ餅」を冷やした思い出もあったのだ。

それから男の彷徨が始まる。かつての恋人は震災後も怖くて外へ出られず、ずっと家で頭から布団をかぶって過ごしたという。人妻となった彼女の膝に顔をうずめた彼は、よりを戻したいと思ったが、それは許されないことだった。あるいは妻と子どもを養うためにせわしなく働いている旧友は、熊本地震のボランティアにうつつを抜かす男を頼りなく感じたのか、苛立ちのあまり「生きろよ」と彼に言い放った。一方で世俗を捨て、高い山を目指してひたすら各地を歩き回る山伏たちとは心の根底で通じ合うものがあるようだ。

やがて男は関西にある和義の実家に転がり込む。そこには和義の世話を押し付けられて四十歳近くなっても独身の姉がいた。彼女にずんだ餅を振る舞って感謝され、とうとう彼は和義およびその姉と三人で暮らすようになる。彼女の家にも井戸があり、その井戸は先祖の修験者が堀ったという。「つながった!」と男は一人で合点した。はるかな旅を続けるうち、彼の目はさまざまな土地の違いを越えて共通した文化の古層を再発見していくようになる。それこそが人と人を結びつける基盤であり、震災前のようにただ一ヶ所にしがみついていた時には決して見えなかったものだ。

本来は物語の発端と思われる和義が行方不明になる(実家へ逃げ帰る)シーンが最後に演じられる。舞台中央で水しぶきを跳ね上げながら山伏たちが踊る神楽は、仙台で男の父が教えようとした神楽に似ている。男はその神楽を熊本の被災地でも踊って見せたら、ずいぶん下手クソなのに大いに盛り上がったという。神楽にせよ山岳信仰にせよ、日本の各地には意外とまだ古い文化の原形が残っているのかもしれない。自分の土地を離れたら生きて行けないという恐怖は、気づかないうちに横のつながりを分断されてしまった現代人特有の強迫観念ではないか。人間到る処青山あり、という。日本人の心の奥深くに息づく共通の文化を掘り起こすことで横の連帯を取り戻し、震災前とは違った新しい社会を築いていけるのではないかという微かな希望のようなものが感じられた。


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