(劇評)パフォーマーから問いかけられる観客

LIRY Project 01 in KANAZAWA『4xPersonne』の劇評です。

2018年7月20日(金)18:00 金沢21世紀美術館 シアター21

4人のダンサーたちが客席をグルグルと回り、笑顔で観客に話しかけたり、壁際で独り言をブツブツ呟いたり。それは決して幕間の気分転換などではなく、観客と一緒にいること自体がこの作品の目的であるようだった。7月20、21日に金沢21世紀美術館シアター21で上演されたLIRYプロジェクトの第1回公演「4 x Personne」は、単に踊りを見せるだけでなく、おしゃべりやクイズも交えながら、観客とパフォーマーとの間に立ちはだかっている垣根を取り崩した。

出演者は、フランス人のロレンツォ・デ・アンジェリス、金沢市出身でベルギー在住の中川郁英、フランスなどで数多くの作品に参加した加賀市出身の横谷理香、独・ベルリンを中心に活動してきた加賀市在住の山田洋平という4人。ロレンツォ以外の3人は欧州と日本における文化の違いを経験から知っている。今回のテーマは「自己紹介」と控えめなスタンスながらも、パフォーマーと観客の距離感や関係性、人間の多様性への尊重など、彼らが感じている問題意識をリラックスした雰囲気の中で地元・金沢の観客に真正面からぶつけていた。

例えば、山田が「左膝を床につけて下さい」「左足を右足につけて下さい」「背骨を伸ばして下さい」「右手を右膝の上に置いて下さい」「骨盤を地面と垂直にして下さい」などと指示を出し、他の3人は目をつぶったままで言われた通りに身体を動かすシーン。「首を伸ばして下さい」ぐらいは辛うじて同じ動きだったが、「右膝を立てて下さい」と言われても、その時点で立っている人と寝そべっている人とでは当然ながら動きが異なる。各人が同じ言葉に従っているはずなのに、置かれた状況によって動きは見事なまでにバラバラ。ロレンツォも頑張っていたが、日本語自体をわかっていないと思われる動きもあった。文化の「多様性」尊重が叫ばれているが、個人の解釈自体もこれほど多様であることをまざまざと突きつけていた。

山田自身はソロを踊らなかったが、観客向けのおしゃべりやトークショーの司会を担当。華厳の滝の裏からものを見ると呪われる、といったあまり怖くない怪談を即興で語りながら、急に黙り込み、まじまじと自分の手を見たり、腕を伸ばしたり。おしゃべりの最中にも自然と身体が動き、日常的な仕草がふとこれはダンスではないかと感じさせる瞬間が多々あった。

横谷とロレンツォのデュエットでは、目を閉じた横谷に対し、ロレンツォが直接触れることなく、気配や空気の風圧を使って働きかける。横谷は全身の皮膚をセンサー状態にしてロレンツォの存在を感じ取り、相手の動きを予測しながら一緒に動く。やがてロレンツォの足音が大きくなり、横谷の踊りもより大胆にスピードアップ。素早い動きにジャンプも加わっていく。これに対し、中川のソロでは、地面スレスレまで腰を下ろした姿勢で前方へ伸ばした自らの手に導かれるように進んでいく。柔らかな股関節を生かし、人間離れした軟体動物のようににじり寄る。正面の客席へ辿り着くと、中川はいきなり笑顔で観客に話しかけた、「気分転換に曲をかけるので一緒に聞きましょう」と。

音楽が始まると、パフォーマーたちはそれぞれ品定めをするように客席を物色し、気に入った観客のそばに腰を下ろす。山田がマイクを持って司会を務め、ロレンツォの人となりを紹介するトークショーが始まる。戸惑うロレンツォ。正面のスクリーンには「ダンサーにとって必要な事は?」「子供の頃の夢は?」「何が怖いですか?」といった質問とそれぞれの回答として4つの選択肢が次々と映し出され、観客に考えさせる。日本語があまり得意でないロレンツォは一人で踊っている。中川がフランス語で「幼い頃に感じた孤独はあなたに何をもたらしましたか?」などとロレンツォに聞く。それに対してロレンツォは黙ったまま、いろんなスポーツの身振りを組み合わせたような気れ味の鋭いダンスで応えた。

今回のプロジェクトの一環として22日に行われたフリートークの中で、山田は「ベルリンにいたが、ドイツの人はディスカッションに慣れていて、量子力学の物理学者とダンサーでも今見た公演について容易に話し合える。内容がよく理解できなかったとしても、何であんなことをやったのかと聞いてくる。表現者と観客の間に隔たりが少ない」と語っていた。

コンテンポラリー・ダンスと言えば、極限まで鍛えられた肉体、張り詰めた精神、激しい情念といったイメージを勝手に持っていたが、この作品は全然違う。ゆるくて、カジュアルで、日常的。どこにでもいそうな、身のこなしのカッコいい人という感じ。今まで一方的に見るだけだった観客もここでは生身の人間としてパフォーマーから見られる。どう感じ、何を考えているかと直接的に問いかけられている気がした。今回の作品では、本来の演劇が持っていたはずのそうした共同体性を取り戻そうとする試みがうかがえた。


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