(劇評)晴れやかに娘を見守る父の眼差し

伊藤郁女「私は言葉を信じないので踊る」の劇評です。
2018年8月4日(土)19:00 金沢21世紀美術館 シアター21

どうして私には友達がいないのか?

どうして孤独を感じるのか?

どうして私の中に暴力が存在するのか?…

8月4、5日に金沢21世紀美術館シアター21で行われた伊藤郁女(かおり)のダンス公演「私は言葉を信じないので踊る」(テキスト・演出・振付:伊藤郁女)では、郁女がマイクを使って共演者である父・伊藤博史や自分自身に向かってさまざまな疑問をぶつける場面があった。

どうしてフランスでは夕食の時に政治について話すのか?

なぜフランスでは絶対にごめんなさいと言わないのか?

なぜ日本ではすぐにごめんなさいと謝るのか?

どうして子供を産むことにプレッシャーを感じるのか?…

それはほとんどエンドレスに続くかと思われたほど言葉の洪水。小学生時代にはクラスで一番背が低かったという郁女が「どうして私は小さいのか?」と問いかけると、一人で踊っていた父が思わず「それはおばあさんが…」と真顔で反応してしまい、会場から笑いが起こる一幕もあった。一人のダンサーが踊り始める前にどれほど多数の疑問形を胸に溜め込んでいることか。

公演後のアフタートークによると、郁女はフランスに渡った当初、言葉がわからないので相手の目線や仕草から何とか意図を汲み取ったという。そうであるなら、今回の作品のタイトルは言葉に対する軽視を意味しない。むしろ言葉で考え抜くことで自我を形作ってきた日本人の少女が、海外へ出て無力感に苛まれながらも、踊ることで危機を乗り越えて行った成長物語なのだ。

冒頭のソロ・ダンスでは、仮面をかぶった郁女が、赤ん坊の誕生から立ち上がってヨチヨチと歩き出すまでをコミカルに再現してみせた。彼女の足は幼い頃から並外れて強かったそうで、膝の上で彼女にぴょんぴょんと跳ねられた父・博史は痛がったという。5歳から始めたクラシック・バレエで鍛えられた郁女の身体は、重心が普通の日本人よりも上にあり、そのことで自分を「よそ者」のように感じるとも語った。しかし、仰向きになってダダをこねる赤ちゃんを演じた郁女の足指は、一本一本までが生きている動物のようにグルグルと動く。それは通常のクラシックバレエではトウシューズの中に隠されている部分であり、むしろ末端にまで細やかに神経の行き届いた東南アジア系の舞踊を感じさせる。

博史は東京に住む70歳の彫刻家だ。かつては演出家として演劇に携わった経験もあるが、ダンスに関しては素人だ。今回の作品で唯一の舞台美術となった黒い布の塔のようなオブジェは、会場であるシアター21の椅子を組み合わせて彼自身が開演前に製作したものだ。そんな博史を共演者として登場させなければならなかった理由は何だったのか?

日本の伝統芸能である歌舞伎の舞台でも、子役がやっと台詞を覚えてたどたどしい口調で披露した時など、芝居の巧拙を超越して、そこにいるという存在感だけで観客の視線をかっさらってしまう。会場はやんやの拍手喝采。その人気ぶりにはどんな名優もかなわない。今回はその逆バージョンと言ったら失礼かもしれないが、父・博史に観客の好奇心が集中したことは疑えない。そう思って眺めてみると、ジャズやシャンソンに合わせて身をくねらせる姿はなかなかに洒脱だ。気品がある。彫刻を通じて西洋文化の教養を自ずと身に付けたものだろう。日本語には「一肌脱ぐ」という思いやりに満ちた言葉がある。今回は可愛い娘のために父が一肌脱いだという気がする。

公演当日配られたパンフレットには、娘から父への手紙と父から娘への手紙が並んで掲載されていた。娘の手紙には「私とお父さんは、この作品を通して、別れを少しずつ告げているんでしょうね。」と書かれていた。日本語には「親離れ」「子離れ」という言葉もある。見終わった後、私は不思議に晴れ晴れとした気持ちを覚えた。この気持ちは一体何か?それはやはり一人前になった娘を誇らしげに見守る父親の眼差しなのだろう。父と娘がさまざまな葛藤を経てたどり着いた今。アーティスト同士としてお互いに尊敬し合いつつ、肉親であるがゆえの照れややりにくさもあり、そして自然な情感が滲み出る。それをフランスと東京に離れて暮らす当事者たちがギリギリの年齢で演じる。そう考えたら、今回のダンスで描かれた父と娘の肖像画はやはりとんでもない奇跡の上に成り立っているのだと改めて感じさせられた。


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