(劇評)良心的であらざるを得ない人々が落ちていく蟻地獄

文学座アトリエの会『最後の炎』の劇評です。

2018年4月14日(土)19:00 東京・信濃町 文学座アトリエ

 一人の少年が交通事故で死亡した。不幸な出来事だが、やがて時間の経過とともに両親の喪失感も癒え、街の表情も再び日常の落ち着きを取り戻すかと思えた。しかし、そうはならなかった。少年の両親や目撃者、事故の原因となったトラックの運転手や所有者ら、さまざまな関係者たちが自分で自分を責め、それぞれに思いもよらなかった不幸の蟻地獄へとはまり込んでいく。ドイツ現代演劇を代表する作家の一人、デーア・ローアーの作品「最後の炎」が4月14〜28日、文学座アトリエの会で上演された(翻訳:新野守弘、演出:生田みゆき)。そこでは常に自分を反省して良心的であらざるを得ない普通の人々が心の健全な復元力を失い、逃げ場がなくなって破滅の坂道を転がり落ちていく悲劇が描かれていた。

 太陽が照りつける夏の午後、エドガーという少年をはねたのは、猛スピードで走り去ったトラックではなく、そのトラックを追いかけていた警察のパトカーだった。その時、少年は道端で空気の抜けたサッカーボールを戦場からの帰還兵ラーべ(大場泰正)に見せていたが、けたたましいトラックの音に驚いて路上に飛び出したところを2台目に激突された。

 トラックを運転していた薬物中毒患者はそのまま家にひきこもってしまった。追走していた女性警官(高橋紀恵)も、罪に問われないとはいえ、責任を痛感。少年の母親スザンネ(鬼頭典子)は、アルツハイマー病が進行している義母ローズマリー(倉野章子)からエドガーはどこに行ったのかとしつこく尋ねられるたびにいたたまれない気持ちになり、息子の死に対して自分にも非があったのではないかとうろたえる。

 トラックの持ち主であるカロリーネ(上田桃子)は小学校の元美術教師であり、中毒患者に鍵を盗まれたことで自分を責める。彼女は、乳がんの手術で乳房を切り取ったが、乳房の再建手術に向けて大小さまざまな人工乳房を服の下に装着して男たちの反応を楽しんだりもする。スザンネの夫ルートヴィヒ(松井工)をはじめ、男関係の絶えない女性でもある。

 そんな毎日に我慢できなくなったか、スザンネは夫と別れ、近所に住んでいる帰還兵ラーべと暮らし始めた。しかし、ラーべは事故を目撃しながら何もできなかったという絶望のあまり、焼身自殺を遂げるのだった。

 ここに登場する人々は事故の責任が誰にあるのかとお互いに探り合い、特に母親や帰還兵は自分自身を責め抜いて精神的に崩壊していく。これほど容赦なく論理的に追求していく迫力はドイツ人の国民性なのだろうか。日本では事故で死んだ少年に対し、可哀想だが、仕方がないと感傷や運命論で簡単に済ませてしまうような気がした。

 それにしても、単なる事故の目撃者が、何もできなかったことを悔いて焼身自殺に至るという結末は、あまりにも突飛で理解不能。なぜそこまで自分を追い詰めてしまうのか。論理的な飛躍ではないか。ただし、網目のように張り巡らされた人間関係の中で、お互いを無言のうちに監視し合っている雰囲気も漂う。限度を超えた道徳が要求される現代社会の息苦しさを反映しているように思えた。あえて日本に置き換えれば、過労死の問題などにもつながるのではないか。もっと肩の力を抜けばいいのにと第三者的な立場から忠告するのは簡単だが、当事者にとっては何でもきちんとしなければ済まないようなプレッシャーがかかり続けているのかもしれない。

 演技エリアはゆっくりと回転する円盤の上。役者たちは否応なく全方向から観客たちの視線に晒される。観客は安全地帯に身を置きながら、登場人物たちを冷たい目で見下ろす格好になってしまう。いつの間にか私自身も、彼らを精神的に追い詰める無責任な世間の一員であるかのような嫌な気分を味わわされた。その点はよく考えられた面白い演出だと思った。


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