本の選び方―私のなかの先生―

中学の頃出会った先生という大人たちは、アタマとカラダのどちらかはわからないけれど、皆どこかのネジが外れていた。

私の中学校では実に様々な先生の事件が起きた。校庭でひとり逆立ちをする人、不倫をする人、秘密を守れない人、走れないバスケ部の顧問、等々。

その人達が学校のイベントで体育館の舞台に上がり歌い踊る姿はとてもコッケイであった。きらびやかな衣装はとても可哀想で、歌声はノイズと共に雑音になり、ステップは、てんでバラバラ。ちっともきれいに見えなかった。私の目にはそう映った。こんな人たちに囲まれて、私は退屈で仕方がなかった。本を読んでも憂鬱で、気が紛れることはなかった。端にあるノンブルがいつも霞がかっていた。

「でも、こんなこと、この人たちをこんな風に思ってるのは私だけなのかもしれない」そう思っていた。文句を言うのは私の我慢が足りないからだ、嫌な気持ちになるのは私の心が狭いからだ。本がうまく読めないのは、集中力が散漫しているからだ。

けれどどうやら、そうでもなかったみたいなのだ。

どこまでネジが外れてしまっていたのか。実際問題生徒と教師の間には亀裂が入っており、教育委員会を巻き込む事態も起きたりした。

そんな中でも、唯一まともな人間が一人いた。

60を過ぎた男性で、目の小さな体育教師だった。

ある日の保健の授業にて。「こどもができて尚、タバコを吸い続けるお前らの親は馬鹿親だ」と、周りからのあらゆる圧力を恐れて他の教師が言えなかったことを、何が正しいのか、どれが常識なのか、まだ判断のつかない私たちにはっきりと言葉で示してくれたのだった。教室はとても静かだった。みんな呆気にとられていた。私には、暴言に聞こえるくらいの授業が丁度良かった。

私はその人に、卒業まえ最後のテスト用紙の余白に「あなたが一番まともな教師であった」と手紙を書いて提出した。

後日答案用紙と共に返ってきたそのテスト用紙には、「あなたはきっと、将来すてきな女性になってください。」と先生からのお返事が赤ペンでしたためてあった。とても芯の通った字体だった。

高校にあがり、先生方に中学時代の先生がいかにおかしかったかを話した。うんうん頷く先生方を見て、やはりあれはおかしかったんだ、私の中の印象だけの問題ではなかったのだな、と納得した。それと同時に悲しくもあった。

高校では、ありがたいことに先生方に恵まれた。やっと尊敬できる大人に出会うことができた。その頃大好きだった先生方の本の題名をよく覚えている。

理科の先生の手には「私が彼を殺した」

簿記の先生の机には「パンドラの箱」

歴史の先生の頭の中には「僕は猟師になった」

現代社会の先生の引き出しには「七色いんこ」

私は自分から本を読もうとして真新しい本を手に取ることは、ほとんどない。

こんな「すてきな大人たち」に出会ってからというもの、私が「読みたい」と思う本は、どれもこれも「誰かの思い」が繋がるものになった。桜庭一樹、村上春樹、石井しんじ、ライトノベルに漫画、エッセイ、写真集、絵本。好きなものはたくさんあるが、これらはよくよく考えてみれば私の大切な人たちが好んでいた、または関わりのある本なのであった。

この先生はこんな人であんなことを言う。この人を構成しているものってなんなのだろう。知りたくなる。あの子は、あの人は、彼は、彼女は、これを読んで何を思ったのだろう。これを見ていたのはどんな時だったのだろう、どんな場所でこれを読んだのだろう。その、大切な人たちのことを思うと、どんどん知りたい気持ちが溢れてくる。以後、私の読書のきっかけはここから始まる。

本に限らず、音楽の選び方もこれに近い。

作品そのものは好きだけれど、それらの本や音楽に至るまでの道のりが、作品以上に好きな人との繋がりを追ってきた結果であった。



「先生」のことは好きだけど、「中学校」が大嫌いになってしまった私。高校に上がってしばらくしても、その中学校の先生たちの残像がだらだらと取り憑いてきた。とある先生からは軽い脅しをかけられたり、ラジオからの悪いニュースで別の先生のことが取り上げられていたときは、もう勘弁してくれと目眩がした。今でも当時関わってしまった大人たちがトラウマだ。誰も変えようと、変わろうとしなかった。

たぶん、時間が経てば私のこころも変わって、この人たちや中学校に対する思いも赦しに変わるのだろうと思う。しかし自信はない。一生、反射的に避けていってしまうだろうという気持ちもある。会いたくない、見たくない、と。

中学生の頃読んでいた本は、あまり記憶に残っていない。読んだはずなのだけど、印象に残る良い本であったはずなのだけれど、どうも嫌いな大人たちの記憶が上回る。あの頃粗末に読んでしまった本に謝りたい。


私の中で、「本」と「高校の先生」は直結している部分がある。

その先生方や友達と、裸のこころで話をして、その人たちが好きだと言った本たちを読んで、高校時代の私は出来上がっていった。

本来の私は読書が趣味に入るかというと入らないし、読むペースもゆっくりじっくり。たくさんの本を貪欲にというよりは、その人だと思って一冊一冊と触れ合っていくことが多い。そうして読んでいった本はどれも大切で、いつまで経っても忘れられない淡い思い出がついてくる。

誰かにおすすめをしてもらって読む本、観る映画、聴く音楽とは、また違う特別なものになる。自分の中で本の向こう側に繋がりのある相手がいると「あぁ、あの人があのとき言っていたことはこういうことだったのか」と、点と点が結びつくような瞬間がどこかにあるからだ。



中学校では、「本を読め」だった。

けれどそうして先生に言われて読んだ本は、印象に残らなかったし、何より先生が嫌いだったので、読んでいても嫌悪感でいっぱいだった。

ほかの人は、どうだったのだろう。どうやって本を選んでいるのだろう。

私は「何かと何かを繋げることが得意」なので、これはモノに限らず人と人、人とモノ、にもなるのだが、普段からこの本はあの人、この音楽はこの人というような考え方をしてしまう。自分から「これはこうこうこうでここが良くてあれがどうでおすすめです」と言えることはきっとほとんど無い。もし誰かに紹介をするとしたら、「誰かがこう言っていたから、あの人はこの作品のここが好きなんだって、だから私も読んでみた、これを読んだらその人のことをもっと好きになったよ」、なんて言い方になると思う。本そのものよりも、目の前の人のことを思う気持ちが上回る。逆に言えば、「そういう出会いかた」でもしないと私は本を読まないのだ。

良い方法か悪い方法かは別にして、私の本の選び方は以上。

なんだか、永遠の片思いのようだ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?