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フィリピン・セブ島旅行記1972年


建設関係に職を得るには、東京・大阪の地は最適だと考え、1970年に下関の地から上京しました。
時は大阪万博の年で、東京・大阪は建設ラッシュにわきました。
建設コンサルタントという職に従事して、かなり多方面の設計に着手することとなります。
 当時、東京のほかに大阪にも事務所があった関係上、大阪にも足を運びました。
当然、万博は見物したのですが、残念ながら写真は数枚しか残っていません。
 
 東京の事務所の近くに、遊び仲間が集まる喫茶店があったのですが、仕事以外では「いりびたり状態」といえるでしょうか。
 
1972年、横井庄一さんがグアムから帰国した時は、衝撃的なニュースでした。
当時から、グアムやフィリッピンセブ島は、南海の美しい海があるということで、ブームになっていましたが、近場の海外旅行としては、羨望の的だったように思います。
 近場は韓国があるにはあったのですが、近年の韓流ブームがおこる以前の韓国は、カジノや公娼制度で一部の金持ちギャンブラーやキーセンパーティーでの性交渉を目的とした日本人観光客でほとんどを占めており、とても若者の行ける雰囲気の旅行地ではなかったのですね。
 
 横井さんの一件から、仲間うちで一機に南海ブームが過熱し、ツアーで「マニラ~セブ島」に行くことにしました。
 
記憶に定かではないのですが、たしか当時は小型ジェット機か大型プロペラ機のようでしたが、フィリピンまで一気に飛べず、台湾かどこか忘れましたが、途中給油した記憶があります。
 とにかく、夕刻に羽田を出発し、飛行機の中で睡眠をとり、フィリピン空港到着は早朝で、それからタクシーに分乗して途中の景色を見ながらマニラのホテルに夕刻に着くという工程でした。
 
これは余談ですが、フィルムは日本から持ちだすのですが、検閲で荷物を当時はX線検査していました。
フィルムはそのままだと感光して真っ黒になるので、X線よけの鉛いりパックにつめてバッグにいれました。
 
 到着後、さっそくタクシーに分乗し、様々なところを見物しながらマニラに至るのですが、コースに旧米軍墓地も含まれていました。
 皆でお金を出し合い、花束を用意していました。
山奥にある旧米軍墓地は、多数の白い十字架で埋め尽くされていました。
 
何故ツアーはアメリカ軍墓地をツアーコースにもりこんでいたか?
以下WIKIによる。
 
フィリピンへの侵攻真珠湾攻撃の10時間後、1941年12月8日に始まった。真珠湾と同様にアメリカの航空機が最初の日本による攻撃で深刻な被害を受けた。アメリカの太平洋艦隊は上空援護を得られず1941年12月12日にジャワ島に撤退した。ダグラス・マッカーサーは1942年3月11日の夜に軍隊を残したままコレヒドール島を去り、4,000 km離れたオーストラリアへ向かった。
置き去りにされた7万6000人のアメリカ軍・フィリピン軍の人々は1942年4月9日に降伏し、バターン死の行進に7000 - 10000人が命を落とした。コレヒドールにいた1万3000人の生存者は5月6日に降伏した。
降伏までの3年以上にわたり、日本はフィリピンを占領した。フィリピンの抵抗軍による効果の高いゲリラ戦闘により、大部分はジャングルや山岳地帯であるが島の60パーセントを支配していた。マッカーサーは潜水艦で配給し、援軍と将校を派遣した。アメリカがフィリピンを1947年に独立させる保証をしていたため、日本軍の「アジアの解放」という大義名分は、インドネシアマレーシアとは異なり、フィリピン人には歓迎されなかった[1]。また、日本人が多くのフィリピン人を細々とした部分の労働まで強いて、フィリピン人はアメリカに対して忠実な態度をつづけた[2]
マッカーサーは1944年10月20日にフィリピンに戻るという約束を守った。レイテ島の戦いには700隻の船と17万4000人の勢力が同行した。1944年12月までに、レイテ島ミンドロ島から日本人兵士は撤退した。
 
これはあくまでも戦後のGHQの指令によるものなので
どこまで本当なのかわからない
 
墓地の休憩所のようなところで
私たちは、フィリッピの地図を目にして
「ああ、ここに横井さんがいたんだ」と盛り上がっていたところ
白人観光客が白い眼をして私たちを睨んでいました。
つまり「日本軍は悪で、米軍が正しい」という考えですね。
これはまずいと思い、その場を離れましたが
よく考えると。米軍墓地ツアーはあっても
膨大な犠牲を伴った日本軍墓地はツアーから
除外されていたのですね。
ツアー内容も米軍ありきとなっていたようです。
 
それはとかく、墓地に白い十字架がそんざいしていた
光景が強烈で、記憶から離れず、後年になり詠んだ歌があります。

2009年8月21日、前立腺癌の疑いで、
 入院手術が決まった数日前のことです。
 もしかしたら、最後になるかも知れない、
 サイクリングを強行しました。
  
前立腺
癌の疑惑に
おびえし日
仙人草は
白き十字架
 
入院2日前、近くの小径のわきに仙人草があたり一面咲いていました。


マニラに到着した後はタクシーからおりられず、車内から街の景色を眺めて、ホテルに到着したのは夕刻の5時頃でした。

当時のフィリピンは、マニラ市街といえども、極貧層が存在し、貧富の差が激しいようでした。
 
5~12歳くらいの少女が、花束をかかえて、花売り娘として街角にたたずんでいました。
 
ホテルにタクシーで乗り付けると、一斉に5~6人の少女が花束をかかえて、「お花買って下さい」と英語で誘います。
 ガイドは絶対に買ってはならないと制止しました。
一人でも買うと、残りの少女が「私のも買って下さい」となきじゃくり、そのうちに、その数が10人以上に膨れあがり、収集がつかなくなるからだそうです。
  
ホテル内で一息いれたあと、まだ陽が残っていたので、ちょっと一人でホテルの外に出てみました。
 
日本でいうところの小学3年生くらいの年ごろの少女が街角で一人花束を抱えて佇んでいたので、
日本円にして100円のフィリピンドルを少女に渡して小さな花束をうけとるや、すぐホテルに戻りました。
少女は喜び、ピョンピョンはねながら、街角に消えていきました。
 (後で聞いた話なのですが、花売り少女は
少女売春婦行っていたようです。
勿論私はそのようないかがわし話には興味がないのですが
いってみればこれは日本では犯罪行為ですね。)
あとで解った話なのですが、ホテルの従業員の月収が日本円にして500円くらいだったと聞き及んでいます。
 
現在のフィリピン事情はわかりかねますが、これは、1972年の記録として画像を添付します。
フィルムも残っていなく、ベタ焼きという35mmフィルムサイズの印画紙から、接写で再現したもので、画質が悪く、色も褪せています。


セブです


マニラもセブ島も、当時は日本人立ち入り禁止区域がありました。
 戦争中の傷あとがまだ残っており、日本の占領下におかれていた現地の反日感情も手伝って、日本人がたちいると、身の安全は保障しないという「危険地帯」に指定されていました。
 
 
セブ島日本人立ち入り禁止区域。
報道カメラマン以外で、単独撮影に成功したのは、多分私だけでしょう。
24歳という若さがなせる暴走ともいえる行為ですが、あまりにも無防備で入り込んだため、多分、中国人と見間違えられたのかもしれません。
私の撮影している姿を現地の人は何事もなかったように見過ごしていました。

マニラに戻り、近くの酒屋で酒とつまみを買い、ホテルの部屋で全員あつまり、宴会を済ませた後に就寝しました。
 
次の日の早朝、無鉄砲な仲間の男が私に現地人居住地に潜入体験してみないかと誘いました。
 私は一眼レフを携帯バッグにつめこむや、即座に二人で近くの居住地区に潜入しました。
もちろん日本人立ち入り禁止区域です。
 



 

現地の言語は「カタログ語」ですが、アメリカの統治下にあったため、英語も通用しました。
 
その男が英語で日本のことなどを説明しているのを、現地の大人や子供達は目を輝かせて聴きいっていました。
私はそのわきから撮影していたのですが、そこには人間と人間の暖かい交流の姿がみられます。
 たぶんこの村人たちの撮影光景も私だけの記録となるかもしれません。

この村落をおとずれてよかったと二人で微笑をかわし、フィリピンをあとにしました。
 
現在のフィリピン事情はわかりかねますが、当時の青春のアルバムの1ページとして、ここに記録します。
 
南国との違いはありますが、小学生時代の下関の町角にも、なんとなく似たような「貧しくとも明るい光景」が想い浮かべられます。
 
 
2013年7月7日  秋月かく

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