旅愁
古い唱歌である。
私も小学生の頃に習った気がする。今でも歌えるから。
秋があっという間に過ぎて、商店街ではクリスマスソングが流れている。
ひと月くらい前だろうか。まだ秋の気配が残っていた休日、近くにある実家へ寄ってみた。
母は相変わらず横になっていて、私が来ても寝たままチラッとこちらを見るだけ。別に病に伏している訳ではない。いろんなことに興味を無くしているのだ。
「ばーちゃん、エレクトーン弾かん?」
母は小さい頃からピアノが得意で。
もちろん家にピアノなんて無かっただろうから、学校のピアノで覚えたのだろう。
私がピアノを習っていた時も、横について教えてくれた。
「エレクトーン弾きたいなー」
もう一度声をかけると
「ええ〜?弾くん?」と体を起こした。
お、珍しく反応がいいぞ。
そのままエレクトーンのところに移動。正確に言うと、卓上の電子ピアノだ。
低いテーブルの上に置いてあり、畳に座って弾くかたちだ。
まずは被せてあった布をのけて、電源を入れる。
譜面台には『旅愁』の楽譜が置かれてある。ほかにも何枚かあるようだ。
何年か前まで、母はすぐ近くにあるコミュニティセンターの、エレクトーン教室に通っていた。そこでもらった楽譜だ。
残念ながらその教室が終了してしまい、それから家で弾くこともなくなっていた。
母が両手で旅愁を弾き始める。
時々つまって楽譜を見つめるも、とても上手に弾いている。
ブランクがあったのにしっかり弾けているではないか。
「さすがやな!ばーちゃん」
まんざらでもない顔でニコリと笑う母。しばらく繰り返し弾いていた。
私も弾きたくなって、割り込んでみる。
小学生の時は音符も読めたし、両手で弾けた。今はさっぱりだ。なんとか右手だけなら弾けるので、昔、母と練習した『乾杯の歌 (椿姫)』を弾いてみた。片手だけとはいえ覚えているものだな。と母に顔を向ける。
母は虚空を見ている。
「乾杯の歌やん!」
虚空を見ている。
「発表会で弾いたやつやん!」
……
覚えてないんかい。
母は何事もなかったかのように、再び旅愁を弾き始めた。
ま、いいや。
ちょっとやる気出たのなら良かった。
「ばーちゃん、これからも弾いたらええやん。なぁ?」
繰り返される旅愁を聴きながら、
ボケたら、あたし1番に忘れられそうやな、と思った。
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