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“原発がなくてよかった”石川・珠洲市と自然

元旦に発生した、能登半島地震。
震度7の揺れを観測し、現在も復興・復旧が進めれられている。
震災直後の津波被害に加え、土砂災害などにより、想定されていた〝避難計画〟の機能不全が明らかになった。
北陸電力志賀原発は、幸い過酷事故を起こさなかったものの、2003年12月に凍結された珠洲原発が立地されていたらどうなっていたことか…。
原発と地震の共存は不可、再稼働政策を進める国の〝安全神話〟は幻想だ。


前史:珠洲原発をめぐる攻防

今回も超党派「原発ゼロ・再エネ100の会」の視察に同行した。
3月22日、長く珠洲原発の反対運動を扇動されてきた北野進さんにコーディネートいただき、現地へ。
北野さんは、石川県議会議員を3期(1991年~2003年)、その後、珠洲市議会議員も務められた方。
北野さんにこれまでの歴史、そして今回の被災状況などを聞きながら各地を回った。詳細は後述。

筆者は、今回の視察に先立ち、3月9日神保町で開催されたイベント「能登・珠洲原発を止めた人々とテレビ番組」に参加した。
スピーカーは、上関についても取材されているライターの山秋真さんと上映された番組をまとめられた七沢潔さん。

珠洲では、1975年に市議会から国に対し、原発誘致の要望書が提出、その後〝スイシン〟と〝ハンタイ〟という形で市民が分断、不正選挙、さらには、土地取得をめぐって関電とゼネコンの癒着・脱税などもあり、もはや〝原子力明るい未来のエネルギー〟など微塵もない形で政策が進められようとしていた。
他にも原発反対のために市外から来ていた人も、途中から〝外人〟とみなされ、その実直な想いも折れるようなことがあったという話も。
そうした長い攻防を経て2003年に凍結された立地計画だが、当時配布されていたチラシを見ていただきたい、原発がもし今あったらどうなっていたか。

推進派(事業者)のチラシ。地震を考えて何て、到底ありえない。
1F事故まで絶対とされていた〝安全神話〟がこのように。
上:山秋さんらがまとめられたチラシ。
下:いかに原発が〝まちづくり〟に生かされるかを示した講演会案内

避難経路はなく、屋内退避もできない状況。
〝安全神話〟に酔っていた当時の我が国の政策はおそろしい。

立地計画地だった高屋地区で、長く活動の中心を担われていた円龍寺住職の塚本真如さんの元には、震災直後、〝原発立地を止めてくれてありがとう〟という電話があったという。
原発と地震は、どの時代も共存は不可能ではないだろうか。

※当時の様子は、山秋真さん「ためされた地方自治 原発の代理戦争にゆれた
能登半島・珠洲市民の13年」
(桂書房)をぜひご参考いただきたい。

原発を止めた裁判官の警鐘

また、視察直前の3月16日、〝原発を止めた裁判官〟樋口英明さんのお話を伺う機会があった。
樋口さんは、14年5月に関西電力大飯原発3・4号機の運転禁止を命じる判決を下し、15年には高浜原発3・4号機の再稼働差止の仮処分を決定した方だ。
この国の司法も政治も「原発の真の危険性について審議していない」と指摘。地震動の大きさを加速度で示す「ガル」については、事業者も国の基準も非現実的、地震災害の前で原発の「絶対」はあり得ないと警鐘を各地でされている。
〝地震大国〟である日本が、人工物である、壊れ・脆い原発をなぜここまで推進するのか、1F事故の〝反省と教訓〟が生かされていないということを改めて考えさせられた。

藤沢市にて筆者撮影

志賀町の状況ー避難所は安全が保たれたのか

22日早朝、北野さんの車に揺られ、金沢駅から能登半島を北上。
今回は、志賀町でのヒアリング(調査含)、珠洲市高屋地区の現地調査、そして再び志賀町に戻り、志賀原発視察という行程だ。

志賀町までは、比較的道路も空いていたが、自衛隊の災害派遣車も多く、全国各地からの応援が来ていた。
金沢から、志賀町までは約1時間。地震による被災影響はそこまで見られなかった。

のと里山海道を進む。左は、日本海。
災害派遣の自衛隊車も多数。ナンバーも様々。

志賀町に到着すると、ブルーシートが屋根に張られている家屋がちらほら。
そうした家は直す気があるようだ。

志賀町はそもそも原発、リゾート中核工業団地を柱として街の活性化を進めていたようだが、原発とリゾートと相反するものが立地しているとは異様ではないだろうか。
実際に〝リゾート〟地も通ったが、原発事故が起きたら、放射能汚染は避けれられない。この計画を進めようとした想いとはなんだったのか。

はじめに、志賀原発から約6.5キロの距離にある総合武道館に立ち寄った。
外観は普通だが、よく見ると防護施設だったが、地震の被害で使用できなくなったとのことだ。
天井が崩落する恐れがあり1月2日に閉鎖し、現在に至っている。

「建物の一部損壊により危険なため避難所を閉鎖します」とある。

建物内の一部の部屋は、放射線防護施設となっており、鉛のカーテンだ。
避難計画上はここからバスに乗って白山市に避難とのことだが、実際は窓ガラスが割れているなど、そもそもの建築上の脆さが露呈していた。

筆者撮影

ガラス窓の真ん中右上あたり、オレンジ部分は、割れている。
割れている=放射線が入ってきてしまうということである。
写真ではよく見えないが、建物内の置物もかなり倒れている。
入口前には、街路灯も落下していた。
〝複合災害〟とはこういうことを指すのではないだろうか。
原子力防災以前に、通常防災さえ、限界がある。

筆者撮影

続いて、志賀原発から約10キロの距離にある志賀町役場へ。
庁舎自体は地震の影響を受けていないが、足元を見ると、地割れや隆起があちらこちらにある。
UPZ(Urgent Protective action planning Zone)=「予防的な防護措置を含め、段階的に屋内退避、避難、一時移転を行う。」に該当しうる距離であるが、原発事故が起きたら、そう容易ではない。となれば、行政機能も移転せざるを得ないと北野さんは危惧されておられた。

志賀町役場
庁舎入り口の車寄せ
隆起の後

庁舎内に入るとまず目を引くのが、志賀原発周辺の環境放射線監視のモニターだ。
そもそもエネルギーは人間の生活の営みに欠かせないものであるにも関わらず、なぜ、〝危険〟が隣り合わせなのか。そのようなことを考えさせられた。

県は、放射線量を測定するモニタリングポストを96か所設置しているが、半島地震のあと、最大16か所で一時データが得られなかった。通信障害をどう解消するかなどの課題もあるが、仮に高い放射線が放出されてしまったら、機械がそもそも作動しなくなるのではないか。
筆者撮影

貴重なお時間を縫って、堂下町議からお話を伺った。
報道でもあるように、志賀原発30キロ圏、21の放射線防護施設のうち、6施設が損傷。うち2施設は使えずに閉鎖、病院など別の2施設は患者らを移し、断水は全21施設で起きていた。
避難所によっては、現在も水道が使用できないところもあるという。少しづづ改善されているものの、今回の地震で〝逃げられない〟ことが判明したと堂下氏。
それでも原発推進を容認している国の在り方に一同改めて疑問を呈した。

左から、北野さん。堂下町議。

庁舎を後にする際、水が配布されていた。
食事、医療、お手洗いその他…水が切実に足りていない。
自衛隊の給水車数からも明らかであった。

珠洲への道のり

続いて、珠洲市へ。
それまでの道路とは比べ物にならないほど、土砂崩れや崩落があった。
ガードレールの役割を果たすはずの柵は宙に浮き、地震直後のまま地割れに挟まれた車も見た。
一方通行のため、珠洲までは1時間以上かかったが至る所での補修作業に従事されている方がおられた。頭の下がる想いだ。

宙に浮くガードレールがわりのロープ(柵)
珪藻土が多いから崩れやすいのではないかという指摘もある
山肌ごと崩落。道はほぼ塞がれていた。

車中では、北野さんから様々にお話を伺った。
二次避難の当たり外れもあり、〝避難所ガチャ〟という言葉も出ていると。
避難所にいた方が支援物資があるから、まだマシだという声も。しかしながら、自分で選べず、行政が淡々と割り振っていく
もちろん、その避難をされている方を考えてだが、生活は一変してしまった。
避難解除、道路整備等、多様な声を行政がどう受け止め判断するかが問われる。

全国からの応援会社の宿泊先も不足しており、プレハブ等仮設で対応されている方もいると。
治安維持・空き巣他対策のため、全国から警察(パトカー)が来ている。1日も早い復旧のために多くの方が出入りしているが、そうした人の受け入れ態勢もどうするか。

報道でしか見ていなかった現地では、復旧の背景で様々な課題が生じていた。

〝原発がなくてよかった〟珠洲・高屋町へ。

珠洲市中心部を抜けて、高屋町へ。
道を進むほど、津波の被害とされる砂が道に滞留していたり、住宅の倒壊もひどくなっていたが、日本海と空はとても青く、そこに木々の緑、ふけ抜ける風も爽快であった。
ここに原発があったらどうなっていたか…避難経路も寸断されている中、〝原発がなくてよかった〟というのは、〝外人〟である筆者も心の底から思った。

道路には砂が。左側には、倒壊した家

珠洲原発の反対行動の中心は、漁協の婦人部だったという。
冒頭に記述した神保町でのイベントで上映された番組では、ご婦人方が監視小屋から関電の車のナンバーを記録している姿が印象的だった。
今でこそ、監視小屋は無くなったが、実際に行ってみると映像より遥かに小さく素敵な港町だ。きっとほとんどの人が顔馴染みであっただろう。にも関わらず、国策に踊らされ分断が生まれた数十年だったのだ。

高屋を一望できる場に降り立った。
道には地割れがあり、海岸の白い部分は隆起が起きたところだ。

道路の隆起・地割れ
高屋地区を望む

さらに海岸へ。
ここでは、2メートル前後の隆起が起きていた。
原発は、立地場所だけでなく、取水口・排水口も建築する。その点で言えば、海岸・海へも構造物が作られることとなる。
原子炉建屋等建築のための陸地への配慮・調査だけでなく、海底のことまで想定しての建築計画に安全はあったのか、隆起はそれを語りかけている。

円龍寺(反対運動の拠点)も遠くに見ることができたが、町は山べりが崩れるなどまだまだ危険な状況だ。
本来係留されるべき船も随分と低い位置となっていた。これは、土地が隆起したことで、海が逆に低くなったということだ。
地殻変動は人間の想定を容易に超えていく。

白い部分が隆起をしたところ
テトラポットもむき出しに。青いブルーシートが貼ってある家は、屋根を修理予定と思われる。
円龍寺を望む
隆起の結果、船と海が低い位置に

北野さんは、歩きながら当時を振り返られていた。

電力会社に〝たかっていた〟人もいたという。
スイシン派は、バーベキューをするときには「肉もってこい」、宴会時には「寿司もってこい」と。

北野さんが県議の時、県側は「こりゃ原発はできない」と思っていたと言われたこともあったと。
また、家のガラスが割られたり、時にはカミソリが入った差出人不明の郵便、無言電話などの嫌がらせも絶えなかったという。

また、珠洲市は、農業も盛んだ。
地震発生時、田圃に水は張られていなかったが、今後水を引いた際に、平坦になってるか、水がちゃんと張るかどうか。農業被害はこれからじゃないとわからないと。

また、「キリコ祭り」という能登伝統のお祭りがある。
震災時には、祭具を保管する倉庫も直撃を受け、祭りの存続が心配されている。
他方、高屋地区の倉庫、そして野菜の保冷庫は関電が多額の寄付をして作られたという経緯もあった。

原発を推進するため、事業者はあらゆる形で住民の生活、心を蝕もうとしたのかもしれない。

以下、動画ダイジェスト。ご参考いただければ幸いだ。

水がない、ライフラインの復旧はこれから

高屋を後にして、珠洲市中心街へ移動した。
昼食を買いに立ち寄ったコンビニでは、まだ水が復旧できていないことから、インスタントコーヒーの販売はされていなかった。
また、被災による建物危険度も調査されていたようだった。

トイレももちろん利用できないので、簡易型トイレが設置されていた。
場所は、2005年に廃止された旧珠洲駅。
駅舎が残されているが、その奥の家は倒壊していた。

地震と原発、それでも再稼働を進めるのか。

高屋地区、そして珠洲市に実際に足を運んだ時、ただでさえ、道が限られている。
繰り返し指摘されている、原子力防災・避難計画は、どう考えても実効性がないことは明らかだ。
珠洲に〝原発がなくてよかった〟。
原発事故は起きてからでは遅い。

そして、志賀原発へと向かった。
地震と原発の共存は不可という実感とともに。

(参考記事等)


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