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この森とは何処か #一歌談欒 3

この森で軍手を売って暮らしたい まちがえて図書館を建てたい/笹井宏之『ひとさらい』

大辻隆弘は評論集『近代短歌の範型』所収の〈三つの「私」〉という文章の中でこの作品ともう一首木下龍也の歌を挙げ、次のように述べている。

〈これらの歌を読むとき、読者は「作中主体」の奇矯な発言や特異な行動に心奪われる。彼らにとっては、一首の歌を詠んだ刹那に感じる衝撃力だけが重要であり、「私像」や「作者」には興味を持たない。〉

一面の真理を突いた言葉だと思う。しかし、本当にそう言い切ってしまっていいだろうか。

私は歌集の中で笹井のこの一首に出会った。この第一歌集が療養生活の中から生まれたことも、第一歌集出版の約一年後に著者が早逝したという予備知識もあった。だから、この歌を奇矯な発言というよりは、ある種の祈りのように感じた。生身の人間としての笹井は、何を売って暮らすこともできない。森へゆくこともできない。したがってまちがっても図書館を建てることはできない。(それは健康な者にとっても不可能なことだろうが、療養中の身にとってはより遥かな夢であったろう。)

『ひとさらい』のあとがきに笹井は書いている。

〈短歌をかくことで、ぼくは遠い異国を旅し、知らない音楽を聴き、どこにも存在しない風景を眺めることができます。
あるときは鳥となり、けものとなり、風や水や、大地そのものとなって、あらゆる事象とことばを交わすことができるのです。
短歌は道であり、扉であり、ぼくとその周囲を異化する鍵です。〉

「この森」とは笹井にとって短歌そのものだったのだろうと思う。そこでは、軍手を売って暮らすことも、まちがえて図書館を建てることも可能だ。軍手。建てる。病弱な人間にとって縁遠い言葉をあえて選んだ「作者」に私は興味と共感を抱く。


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