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飲食業と景気・前編(第10話)

【前回の記事】

【はじめに】

年が明けた頃、感染が広がり始めた新型コロナウイルス。世界中がひどい事になってしまった。パンデミック宣言、そしてロックダウン…。国によっては医療崩壊が起きてしまい、沢山の方の命が失われた。ワクチンと特効薬がない時点で感染速度を遅らせる為には、人々の動きを制限するという方法しか無かった。

私は今、ドイツで暮らしている。ヨーロッパの被害は日本の何倍もひどい。例えばイギリスの死者数は4万人以上だ。ドイツの死者は1万人以下、日本の10倍の方が亡くなったがこれでもヨーロッパの中では抑え込みに成功した方だ。

3月頃から私はドイツと日本のコロナニュースをチェックし比較していた。初期こそダイヤモンドプリンセス号の件があり、日本が大変なことになってる!と驚いたが、その1ヶ月後にはヨーロッパの方が感染拡大の中心地になってしまっていた。

ドイツでは最もひどい時には1日で350人の方が亡くなった。つまりイタリアやフランス、スペインはもっともっとひどかった。

6月の今、コロナ対策の方法は変わってきた。ロックダウンして封じ込めるという超短期的な戦略から、経済活動とどう折り合いをつけるかという中長期的な判断がされるようになり、自粛やロックダウンは段階的に解除されつつある。

春先から色んな業種のお店が営業自粛をしていたわけだが、その間は売り上げが無いのに固定費はかかる、赤字垂れ流しで地獄のような期間だ。コロナで亡くなる人と経済的困窮で亡くなる人を天秤にかけるような状態、最悪だ。

・日本での飲食店

緊急事態宣言が発動した直後は多くのお店が休んでいたとニュースで見た。飲食マンの友達数人に連絡を取って大丈夫?と尋ねると、一様に大変そうだった。その中の1人の友人はカジュアルフレンチのお店を3店舗経営しているのだが、全店でテイクアウトを急遽始めてその期間を凌いでいたそうだ。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び…友人のこのお店はコロナ前までは毎晩満席で週末は予約も取れないようなお店だった。

私が以前やっていたお店、そしてこの友人のお店の立地は神保町のあたりで、いわゆるビジネス街だ。昼夜の人口比は10対1であり、この辺りの飲食店はサラリーマン向けのサービス設計をしている。例えばコーヒーとトーストのモーニングサービス、ランチの定食やお弁当販売、夜にはサラリーマン向けの居酒屋など。コロナによってテレワークが推奨され、最も売り上げに煽りを受けることになるだろう。

先日このニュースを知った。

神保町で知らない人はいない程の有名店だ。安くて旨くてボリュームがある料理を出すお店。カツカレーが名物でランチにはいつも行列が出来ていた。オーナーさんはかなりのご高齢なのは知っていたが90歳だったとは…。そして60年お店をやってこられたそうだ。しかし今月26日で閉店へ。なんという事だ!

60年という時間の中でどれ程多くの方を守ってこられたのだろうか。60年間も経営を続ける事はどれ程難しい事だろう。幕引きの理由がコロナだなんて何と虚しい理由だろう…様々と物問うてしまう。

それにしても素晴らしいインタビュー記事だった。このお店が神保町でどれ程愛されているかを知っているが故、なお強く感じるものがある。

――カレー激戦区として知られる神保町で、60年生き抜いた店がなくなることについては?
南山:サラリーマンだって働けるのは、せいぜい40年でしょ。それが60年も続けることができたんですから、残念なんて言ったら贅沢ですよ。いい潮時です。でも、あの建物が僕と同い年だとは思わなかったなあ……。

清々しい言葉だ。時世を恨まず感謝を述べておられる偉大な方を心より尊敬する。文中、16歳の頃に終戦を迎えたと書いてあったが、その後の激動の時代を東京の真ん中で生き抜いて来られた方の言葉は尊い。

歴史を振り返りると、人類は危機的状況を乗り越えるたび社会を良い方向へと導いてきた。だからこのコロナ禍も喉元を過ぎれば良い転換期だったとなると思う。だが、今この瞬間を切り取ってみれば失うものが多すぎる。せめて歴史の1ページとしてこの伝説を未来へ語っていきたい。

このニュースを知り、急遽前書きを追記した。コロナ禍において、飲食業は大きな産業にも関わらず補償は少なく、見殺しにされたなと感じていた。その理由は、業界としての横の繋がりの少なさだったのだろう。そして結果として歴史ある老舗が次々と閉店していっている。キッチン南海は飲食業界においては重要文化財のような存在なのに…やり切れない思いがする。

もう間も無くキッチン南海が歴史になってしまうことが悲しくて仕方ないが、私自身は力が無さ過ぎて出来る事が無い。せめても思いが伝わればと、内閣府のパブリックコメントに意見を書いた。飲食業界はもっと評価されるべきだ。

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【2014年3月、日本の経済】

前書きが長くなってしまった。ここのところ思う事が多い。キッチン南海のオーナーさんのインタビュー記事を読み大変感動したし、自分のちっぽけさを痛感した。私如きが書く文章にはさほど価値が無いなと感じつつも気を取り直して書いていこう。

・アベノミクス

今から6年と3ヶ月前。2014年3月8日、円満を開業した。その頃の背景だが…

https://ja.wikipedia.org/wiki/アベノミクス

開業の前年、13年にアベノミクスが発表された。テレビのニュースの批評はどちらかというと否定的な意見が多かったように思う。今もあの頃もマスコミの報道には問題があるなと感じる。今ではネットで色んな情報を取りに行く事ができ、真実はなんなんだろう?と、各々が判断する事ができやすくなってきた。だが2013年、この頃の私はテレビのニュースを鵜呑みにしていて、安倍さんがまた変なことやってるっと思っていた。だが今から振り返るとアベノミクスを機に日経平均株価は上がっていていき、景気は良くなっていった。

実家、景気が悪くはない事を肌で感じていた。お客様の業者は様々だったが領収書を切るお客様が沢山いたし、金曜日の夜は忙しかった。

・消費税が8%へ

もう一点、ちょうどお店の内装工事をいている時のこと。私のお店は小さい店ながら、内装工事は1ヶ月くらいかかった。なぜかというと13年4月から消費税が5%→8%に上がるというタイミングで、増税前の駆け込み需要が高まっており、内装業者も大忙しで小さい私のお店は後回しにされてしまった。内装完成予定は長めに取っていたが、結局引き渡し日は予定を2日程過ぎた。まぁ仕方ない。消費税増税の時期にはこんな事も起こるんだと良い勉強になった。

またこの頃、値段の表記を内税にするという法の変更もあった。詳細は⬇︎⬇︎⬇︎


【地域の背景】

私のお店の住所は正確に言うと神田小川町だった。周辺には古い地名がたくさん残っている。神保町、錦町、みとしろ町、淡路町…と、かなり細かく分かれていた。

皇居のお堀の北東すぐに広がるこの辺り地区は江戸に都が出来てすぐに栄え始め、それぞれの地名にその歴史的背景が含まれている。

例えば紺屋町という地名がある。紺屋、つまり藍染屋さんが集まっていた町だ。古典落語に紺屋高尾という話があるが、この話の舞台がまさにここ。神田お玉ヶ池近くの染め物屋で奉公していた久蔵さんが花魁に恋をする人情話だ。

あとは猿楽町。猿楽とは能楽の事で、かつては芝居小屋があり役者さんやお囃子をする方が住んでいた町だ。鍛冶町って地名もあった。鍛冶屋さんが沢山あったんだろう。

歴史のある場所柄、冒頭に書いたような古いお店も沢山ある。この辺りの自慢話は凄く面白くて、例えば神田錦町更科そば屋さん。このお蕎麦屋さんは古くは皇族方の馴染みのお店だったそうで、出前に皇居の中まで(どこまでかは分からないが)顔パスで入って行く事が許されていたそうだ。天皇家御用達の蕎麦屋さん。

この町で働いていた頃には思い出せばキリがないほど、江戸の歴史にまつわる話を沢山聞くことができた。それを教えてくれるのは古くからこの辺りに住む方で、つまりこの辺りに土地を持っている方々だ。

・歴史を残すのか、経済発展を進めるのか。

神田明神、有名な老舗店、商店街…歴史が残っている点はこの地域の素晴らしい事だ。だがこの辺りは(浅草のような)観光の土地ではなくビジネス街なのだ。歴史ある木造の家よりオフィスビルの方が需要があるということ。

そして実際に再開発の流れは東京駅の方から徐々に広がってきていた。私が営業していた4年弱の期間にも、徒歩5分圏内に新しいビルが4棟は出来た。

ビルを建設中だったり、土地の買い上げの最中という区画も沢山あった。中でも1番大きな計画だったのが神田スクエアの建設だ。

今年開業のこの建物は電気大学の跡地に建てられた。電気大学は12年までこの地にあったそうだ。電気大学の移転から新しいビルが開業するまで約8年間、この辺りの飲食業界は興味深い変化があった。そして、この話は後編に書いていく。


冒頭に書いた様に突然キッチン南海の話を知り前書きを載せましたが、ブログが長くなってしまったので2つに分けます。今日も読んでいただきありがとうございます!





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