ついに手に入れた、一人のお風呂時間

「おめでとう、わたし」

頭に浮かんだのは自分でも思いがけない、
祝福の言葉だった。

それは、たった一人で
誰も入っていないまっさらな一番風呂を前にしたとき。

私は、およそ8年ぶりに一人でゆっくりお風呂に入ったのだ。


それまでは、お風呂は自分だけのリラックスタイム。

世の20代女性がしていたように、
香りや品質を考慮して選びとった
流行最先端のシャンプーやボディケア用品、
とっておきのスペシャルケア用品にスクラブなどが
所狭しと並んだ棚に目をやって
今日はどれでケアしようかな、と思いめぐらしながら
ボディチェックやマッサージにいそしんでいた。
まるで自分の体と会話をするように。

長男の妊娠が分かって、
昨日と全く変わらないように見える自分の腹部が
まるで自分のものと思えない奇妙な感覚で眺めたのも

少しずつ大きくなっていくお腹の中の
まだ見ぬ赤ちゃんを慈しんでいたのも

出産間近、湯の上にポッコリつきだしたボールのようなお腹に
手でお湯をかけながら、胎動を見つめていたのも

同じ、静まり返った浴槽だった。

それが、出産と同時に
お風呂場=遊び場と化した。
そこは、常にだれかの声が響くところとなった。

横文字が並ぶスタイリッシュなデザインのバスグッズは
ひとつ、またひとつと取り除かれ

代わりに目に優しい水色や桃色の容器がやってきて
「無添加」「アミノ酸系」「低刺激性」などが目につくように。

それからの数年は、お風呂の時間は、それはそれは、楽しかった。
幸せだった。

まだまだ小さかった子どもたちを肩を並べて
「おいしいごはんに ぽかぽかおふろ~」と口ずさんだり
延々と続く「おまけのおまけの汽車ポッポ」に笑ったり。


ヨーグルトの容器を持ち込んで遊んでいたら
その周りについていた紙が
あるタイミングで一気に水に溶けてしまい、
まるで手すき紙の素材のように
湯船にふよふよ浮かんできて
みんなで必死になって捕まえたり。

そう、とても面白かった。


そして、時は流れ。
あと2ヶ月で8歳になる長男と筆頭に、
私はまだ、子どもたち3人と一緒に入浴していたのだ。

しかも我が子たちはそろって、平均よりも体が大きい。
よって、湯船はもちろんぎゅうぎゅう。

大人の私が足を伸ばせるわけもなく、
頭から思いっきりお湯をかけあうのは
母にとっては迷惑行為でしかないし、

寒い風呂場を温めたくて暖房を入れる母
VS
暑すぎて嫌だと駄々をこねる子の攻防戦や

教えた記憶が全くない、こどもらしい(しかし低俗な)発言やら
しょうもないちょっかいやら
誰が蹴った、水を飛ばした、と
まぁ、耳をふさぎたくなるような音の洪水の中で

体育座りの格好をして身を縮め、
なんとか体を温めていたのに、さすがに限界を感じた。

もちろん、遊びたい人は遊んでいい。
私だってかつては、ちびっこの君たちと大いに遊んだ。
薄いビニール袋や発泡スチロールの容器で
浮力とか、水の重さとかを一緒に感じたし

薄手のタオルに空気を閉じ込めて
てるてる坊主の要領で水中に沈め、
たこさんも作った。

楽しかった。

しかし、もう君たち3人のエネルギーに、
遊びのダイナミックさに、
ついていけない。

お母さんにとってはお風呂の時間は、
ゆっくりリラックスするところなのよ。

それに、この体で皆を産んだわけであるが、
体型の変化を感じる今日この頃、
そろそろ子どものまっすぐな視線が痛い。
何か言われる前にフェードアウトしたい。
彼らの余計な記憶に残したくない。


ということで先日、
お風呂別々宣言を発令したのだった。

真っ先に動揺したのは、長男。
想像力が人一倍強い彼にとって
「夜」「母無し」の状況はよほどきついのだ 。
しかし、切々と語った母の思いを受け止めてくれる
優しく正義漢のある彼は、
「え―ママと入りたーい」と言う6歳の妹をびしっと静止してくれた。
(ぬけがけは許さないぞという意思の表れかもしれないが)

兄姉大好きの末っ子3歳は、
新しいやり方をあっさり受け入れてくれた。



子どもたち(特に長男)の配慮をしたうえでの
私の一人お風呂作戦は、
まず私が1人で入浴し、
満足したころにお風呂のリモコンについている呼び出しボタンを押す。

すると、リビングで過ごしている3人がそろってお風呂場に来る。

手助けが必要な子にはサポートし、
やることが終われば私は脱衣所へ。

そのころにはもうゆっくり体を温めてある。
体も心も満たされた状態でいられる。
小さな文字で書かれたスキンケアの表示をしっかり確認して
順番を間違うこともなく塗布できるし
何ならハンドプレスして深呼吸する余裕だってある!

隣の風呂場から聞こえる笑い声も可愛く感じるし
母の存在が感じられる距離感での入浴は新鮮なのか、
緊張感もあるのか、きびきび動いてくれる。

扉1枚開けばすぐ行けるから、事故の心配も少ない。

私はついに「私」の時間を増やすことができたのだ。


お風呂別々宣言を発令した初日、

誰も入っていないまっさらなお湯を前に、
私は自分にお祝いの言葉をかけていた。

驚いた。


まだ一緒に入りたいと言ってくれる彼ら。
その要望をはねつけて、自分の思いを優先することが
引っかからないわけはなかった。
ずっと、悩んだ。

特に男子たちとはもう一生、
一緒にお風呂に入るなんてことはないかもしれないと思えば
なおさらブレーキがかかった。

でも、やった。

お風呂に一緒に入らなくても、
それはあなたたちを拒絶しているわけじゃない、と
こんこんと伝え、
やってみて、また違うようなら相談しよう。
皆が満足できる時間にしよう、と時間をかけて話し合った。

はたから見たらおかしなことかもしれないが、
我が家ではよくある、真剣な話し合いを経て
ついに、やった。


結果、私はとても満足している。
自分の体と向き合い、会話し、マッサージをしたり
あるはずのなかったお肉の存在を発見したり、
そうした時間を取り戻している。

子どもたちの声は、まだあがっていないが
もし意見が出てきたら、また家族会議をするつもりだ。


何とも満ち足りた気持ちで湯船に身を沈め、
ちょっと熱めにしたくて追い炊きスイッチを押す。
自分の好みに温度を変えられるのはいいものだ、と
夢見心地で幸せを加味していた矢先、
排水口から温かい湯とともに
白いほやほやしたものが噴き出してきたのを目にした。
一気に現実に引き戻された。

そう、常に子供たちの体で湯船が埋め尽くされていたので
気づかなかったが、どうやら風呂釜が相当汚れていたらしい。

果たして、最後に掃除したのはいつだっけ…
メーカー推奨の「月イチ」など、はるかにすっとばしてはずだ。

母の幸せ時間は、
こまめな掃除をするというありがたい気付きまでもたらしてくれた。

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