答えは自分のまわりにある

自分のことは、分からないものである。


あることを言われ、

それが私の心をかき乱している。

しかも、自分でも思ってもみないほどのインパクトを持って。


数日たっても、やはり心に引っかかったままだ。

その結論に達するまでの論理に、破綻はない。

こちらの心のざらつきを説明できる根拠は、まったく形を成していない。

きっと、私にしかわからない。

言語化できていない、もどかしさ。

無意識レベルで、いやだと言っている。



このような異物を胸に残し

まるで目の前の現実を

一枚の透明の、しかしわずかに違和感を感じるフィルター越しに
見ているような気分でいる。


それでも日々は動いていく。



どんな顔で玄関のドアを開けても

我が家のボーダーコリーはしっぽを振って出迎え

自分のボウルの前で
まるで小躍りするように足踏みしながら
餌を待っている。

毎日、毎食、同じ味の
何のへんてつもないドッグフード。

なのに、勢いよくむさぼり食っては
私の足元の、ラグの片隅の定位置で丸くなって
満足そうに目を細めている。

そのうち寝てしまうだろう。

この顔。
幸せだ。

カチカチになった心がほぐれている自分に気づく。


「自分は、どうしたいのか」


この問いは、とても、難しい。

およそ、何かと運命的な出会いをして
「私の人生はこれに捧げる!」なんてドラマティックな事件が起こらない限り

自分の内面を一人で掘り下げていくのは、時につらく、苦しい。


しかし、自分の外にいる物の喜びが、私の心を動かした。

あなたがうれしいと、私もうれしい。


買い物に出かけて目につくものは
必ず、家族の誰かの好物。

袖に手を引っ込め、鼻を真っ赤にして帰ってくるだろうから
コーンスープを用意しておこう。

水菜のサラダ、あの子、ボウル一杯食べつくしたっけ。

一気に3つも食べちゃうんだから、みかん一袋じゃ足りないな。

自分に関してはさっぱり答えを出してくれない頭が
スーパーに入れば生き生きと動く。

あの記憶、この記憶で
脳が喜んでいる。

なんだか私、楽しんでいる。

家族のことは、私が知っている。
私のことは、誰が知っているんだろう。

自分がしたいこと、
誰かに求められていること。

答えのヒントは、自分のまわりにあるのかもしれない。

今度の週末は、人に会おう。
会いたい顔がいくつも浮かぶ。

予想以上に大きく膨らんだ買い物ぶくろの重さに足を取られつつ、
頭の中は少しだけ、知りたい未来に近づいた。

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