silent

今秋は、久々にいくつかTVドラマを見ている。

高校生の頃とかは、おそらくほとんどの枠のドラマを見ていたように思うが、最近は朝ドラくらいだった。
そんな私がドラマを見るきっかけを得るのは、お気に入りの俳優が出ているか、誰かに興味深いプレゼンをされたか、SNSでやたら見かけてorたまたまTVをつけた時にやっていた、だいたいそのいずれかだ。

silentは、Twitterで度々目にしていたので気になっていたところに、一緒に仕事をしている人に、「今、恵比寿」というフレーズと共に魅力を教えてもらい、かつ、たまたまTVをつけたらやっていて、確か5話の途中からだったと思うが見始めた。翌週6話を見て習慣になり、7話まで見終わると最初の方が気になって仕方なくなり、この週末はFODで、特典映像まで一気見してしまった。こんなのは久しぶりかもしれない。

ドラマを見る時には、完全に感情優位になってしまうので、どこがどういい、をうまく言語化できるほど頭を使えてないのだけど、私が印象的だなあと感じているのは、「ろう者(もともと耳の聞こえない人)と、中途失聴者(途中から聞こえなくなった人)と、聞こえる人は、皆違うから分かり合えない」という言葉と、物語の中で、互いが少しずつ近づき、分かり合えるシーンが増えていく描写だ。

恋愛がベースとなることによって、伝えたい、伝わらない、伝えることが怖い、そんなもどかしさのようなものがより胸を打つ形で入ってくるのだけど、誰かに何かを伝える時って、少なからずこういう状況なのだよなあということを思い起こさせられる。

自分と全く同じ人はいない。持って生まれたものも、環境も、育ちも、学んできたことも、やっていることも、やっていきたいことも、みんな違う。そんな中で、何かを伝えて、すり合わせて、少しでも近づいていくって、思えばすごいこと。「伝える」のだって、場合によってはとてもとても勇気が要ったり、技術も要ったりする。

完全な理解や共有を求めるのは無謀なことなのかもしれない。でも、近くにいて欲しい人であればあるほど、相手に自分と同じ感覚を求めたくなってしまうし、理解してくれるはず、ここまで言わなくてもわかるはず、と期待をしてしまったりする。そして、その期待が少しでも裏切られると、悲しみや孤独を感じたりしてしまう。

処世術として、「そもそも相手に期待をしない」というように、ここのスイッチを切る方法もある。傷が増えてくると、こちらをベースにして、自分の期待で相手を傷つけないように、そして自分も傷つかないようにしてみたり。それが奏功する時もある。けれど、やっぱり少しでも分かり合える時の喜びはひとしおだったりするから、私はこれからも諦めずに、少しでも均衡を破るべく、ちょっとだけ攻めのコミュニケーションをしていくのだと思う。それを表出させるまでには、ものすごい葛藤や考察を繰り返すことも多いけど。だからなのか、川口春奈演じる主人公のシンプルさに、また揺さぶられる。

きゅんとすると、私は昔から何故か首がじーんとするのだけど(みんなそう?)、silentは久々にそんなじんじんする感覚を呼び起こしてくる。

このドラマを見ていると、自分も少しだけ、攻めたくなってくる。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?