《ある》を手繰り寄せる社会に。

「仕方がない」


ググれば冒頭に、このような説明書きに出会える。

理不尽な困難や悲劇に見舞われたり、
避けられない事態に直面したりしたさいに、
粛々とその状況を受け入れながら発する日本語の慣用句。


何やら長ったらしい気もするが、

それさえもある意味、

「仕方がない」話なのだろうか。

コロナ禍になって2年が過ぎ、

もはやこの「仕方がない」という言葉は、

今までにはない不思議な力を体得した。


急な不参加も、

突如の変更も、

今までであれば非常識だったそれらの、

あらゆる感情を一気に取り込み、

それもこれも、コロナだから、

「仕方がなかった」のだから、と。


コロナの病状についての諸説や、

医療体制の施策の是非、

危険度の解釈をここで語るともう、

朝まで書かないといけないくらい、

あちらこちらの文献を引っ張り出し、

と同時に、沸き起こる感情を禁じ得ない、

ある種の怒りと葛藤が常に脇で控えている。


(とだけ、ここでは書いておきたくなった)。


ここで、この「仕方がない」を取り上げたのは、

そういうことを言いたかったのではなく、

「仕方がない」という言葉の魔力ともいうべき、

この脱力が、少しずつ当たり前の空気として広まるであろう、

社会風土の変化への懸念である。


仕方がない、への、垣根の低さ、

仕方がないと決めることの容易さが、

この先の社会に何やら不吉な、

未来を閉じ込めかねない、

脱力の影を落とすのではという、

ある意味で杞憂と分かりつつも、

どこか取り上げたくなる傾向を見たからだった。


どんな理由であれ、

どんな状況であれ、


「仕方がない」にはどうも、

気の抜けた炭酸水のような、


あー、もう、それはちょっと飲んでもなあって、

素通りのように喉を落ちる液体に辟易する感じの、

はあっていう、だらーっとした、抜け加減。


私の不安はコロナ禍による健康被害もあるけれど、

経済の問題もあるけれど、

この、仕方がない、が充満する社会の怖さだ。


この2年間は、初めての空気ばかりだった。

確証のない、けれど確実に感じられる、空気圧。


科学的検証よりも、この場を支配する空気というものが、

決断力と影響力を持ち続ける。

恐らく過去の歴史の分水嶺に、度々表出しては、

その空気という魔力に取り付かれてきた

私たちの歴史そのものでもある。


本当に、これは、

「仕方がないん」だろうか。


いや、仕方は、《あるんじゃないのか》。

この《ある》という空気こそ、

2年のうっ憤を晴らす歓迎すべき空気としていく、

そんなプロセスに今、立ちたいと、

ただただ、想うのでした。


仕方は色々と、ある。

その、ある中の一つを、私たちは選んだのだと、

力強く、強炭酸を喉に流し込んだ時の、

腹の中を駆け巡る刺激の一泡一泡を、感じていたい。


この2年は、

仕方がなく生きた2年。

この先は、

俺たちが選ぶ生き方を生きる。


ただ当たり前に生きることを、

有難く、生きようという時代を、


《ある》を手繰り寄せる社会こそ、見届けたい。


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